朝廷から認められたのは藤原だった
この問題を考えるうえで注目したいのが氏の改姓である。当時の日本社会では、主に所領に由来する家名(名字のこと。松平、徳川など)のほかに、同一の先祖から発生していることを示す氏が意識された。源、平、藤原、橘などがこれにあたる。
家康は、実は、永禄9年(1566)、従五位下三河守叙任勅許の際に朝廷から認定された氏は藤原であった。系図を作成する際に参考にした記録が「徳川は本来は源氏なのであるが、その筋が分かれて藤原氏になった」というものだったからである。
なぜそんなややこしいことになったのか事情ははっきりしないが、この問題を調整したのが藤原氏の氏の長者である公家の近衛前久であることが関係しているのではないかと考えられている。
ただ、家康は永禄9年以前は、発給する文書に源氏と署名していたのだ。このことから家康自身はルーツが源氏であることに強いこだわりを持っており、本音としては源氏を称したかったのであろうことがうかがえる。
家康ただ一人が源氏を名乗った
そして家康は、ある時期を境に、また源氏を称するようになる。それは天正16年(1588)、47歳のときのこと。この年の正月、室町幕府15代将軍だった足利義昭が朝廷に征夷大将軍職を返上して出家、室町幕府が滅亡した。
同年4月。羽柴秀吉は新たな邸宅である聚楽第に後陽成天皇を招き、天皇の前で諸大名に自身への恭順の宣誓と署名を求めた。
この時の記録『聚楽第行幸記』を見ると、大名のほとんどが豊臣氏を冠した署名をしている。豊臣は秀吉が天皇の許可を得て新たに創始した氏で、家臣の大名たちに授与した。なので、たとえば秀吉の親友ともいえる間柄で、豊臣政権を支えた重鎮の前田利家も豊臣利家と署名している。
しかしこの時、ただ一人、源氏として署名したのが家康だった。室町幕府が滅亡し、足利将軍が消滅した年に、家康が再び自身のルーツが源氏であることを主張するようになったというのは大変興味深い。
次の将軍になるという野望
鎌倉幕府を開いたのは源氏の源頼朝。室町幕府を開いたのはやはり源氏の足利尊氏。あくまで結果論ではあるが、これまで幕府を開いたのは源氏をルーツに持つ征夷大将軍だ。
特に家康は鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』を愛読するなど源頼朝に傾倒し、それはもうバチバチに影響を受けていた。
家康はこの時点で「次に幕府が開かれるとしたら、その頂点に自分が立つ」ことを、ある程度実現の可能性がある未来として意識したのではないか。