「今川義元に収奪される三河武士」は本当か?
大河ドラマ「どうする家康」第1回「どうする桶狭間」(1月8日放送)では、若き頃の徳川家康が、人質として過ごしていた駿府から父祖の地・岡崎に一時帰還、三河衆(家臣)から饗応される場面が描かれました。
その時、家康の側近く仕える石川数正は、家康に次のような言葉をかけたのです。
「何と見すぼらしき者たち、何と貧しき膳。そうお思いでしょう。田畑の実りのほとんどを今川家に献上している三河衆にとって、あれが精いっぱいのもてなしなのでござる。私は涙が出る。
殿、お忘れあるな。あの者たちこそが、殿の家臣であり、今は今川の城代が居座るあの城(岡崎城)こそが、殿の城なのです。いつか必ず、あの者たちと共に三河一国を束ねる時が参ります。その日にお備えくだされ」と。
今川義元に収奪される三河武士――。『三河物語』などの記述もあって、これまでドラマでもそのように描かれることが多かったのですが、果たして、実態はどうだったのでしょうか。また、家康の織田・今川人質時代はどのようなものだったのでしょうか?
6歳のときに織田家→今川家へ
家康が生まれた三河という国は、尾張と駿河という強国に挟まれていたため、常に隣国に翻弄される立場にありました。
天文18年(1549)11月、尾張国・織田信秀(信長の父)の人質となっていた竹千代(後の徳川家康)は、今川家が捕らえていた信秀の子・信広との人質交換によって、駿河の今川義元の元に赴きます。
ちなみに、尾張にいた頃(1547〜1549)の竹千代は、清洲城内ではなく、熱田の豪族・加藤順盛の邸に預けられていたとの説もあります(その後、名古屋の万松寺に移されたとの説もあり)。
家康の実母・於大の方は、松平広忠(家康の父)と離縁した後、尾張国知多郡阿古居(阿久比)の豪族・久松俊勝(織田方)に嫁いでいました。
熱田は、阿古居に近いということもあり、於大は、使者を遣わし、竹千代に差し入れをしていたとも言われています。想像ではありますが、家康が熱田に預けられたのは、そうした配慮もあったのかもしれません。