地理的には左遷だが、石高は大幅アップ

小田原城落城前、秀吉は家康を見晴らしの良い場所に誘った。そして、「小田原城が落城したら北条家の旧領国を徳川殿に明け渡したい(つまり徳川家は関東へ転封)と思っているが、どこにお住みになるおつもりか」と聞いた。

家康は「さしあたっては小田原城に住もうと思っています」と応えたが、秀吉は「それは甚だよくない。ここは東国の喉仏なので家臣のなかで軍略に優れたものに守らせ、徳川殿自身はここよりさらに東の江戸城を本城にされるとよい。地図を見るとなかなかいい場所である」と言った。

というのだ。つまり、家康の江戸入りを決定したのは秀吉である。

徳川家の旧領の三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国はおよそ150万石だったが、北条家の旧領である関東への転封により240万石になることが見込まれたので、転封自体は栄転であった。

ただし、豊臣政権の中枢である京都・大坂から距離的にはぐっと離れる形になり、さらに本拠地をぐぐっと東の江戸に指定されたということは地理的には左遷とも受け取れる。

秀吉は何を意図して江戸を指定したのだろうか。

皇居(江戸城跡)
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秀吉にとって面倒な存在だった

その理由を確定できる史料は今のところないので状況から想像するしかないのだが、私は「家康を敬して遠ざけられる場所が江戸だった」のではないかと考えている。

もとはといえば秀吉は織田信長の家臣であり、家康はその信長の同盟相手。いわば上司の盟友である。秀吉に臣従した織田・豊臣恩顧の大名たちとは立場が違い、家康の顔が立つよう豊臣政権内でも厚遇する必要があった。正直面倒な存在だっただろう。

今や全国屈指の実力ある大名となった徳川家康が機嫌を損ねて謀反を起こせば、豊臣政権も無事では済まない。この危機感は豊臣政権重鎮の前田利家にとっても共通の認識だったようだ。

利家の家臣が記した逸話集『利家夜話』には、利家が「いつか必ず家康と敵対することになるので、その時に北条家の遺臣が前田家に味方するよう手なずけておく必要がある」と語ったエピソードが記されている。

このように豊臣政権の脅威となりうる存在の家康に小田原にいられては都合が悪かった。なぜなら小田原は秀吉が言ったように「東国の喉仏」つまり、箱根峠に隣接しているからである。関東の定義が、足柄峠と箱根峠の東、という意味であることからもわかる通り、箱根峠は陸上交通の要衝中の要衝だ。

秀吉は小田原城には家康の家臣の大久保忠世に入るよう指名したのだが、これは家康が謀反を起こすことを想定し、その際に小田原の大久保忠世が豊臣方に有利な動きをするよう恩を売ったのだと伝わっている。