織田信長、豊臣秀吉よりも優れているところとは
徳川家康という人物は、私の評価にすぎませんが、織田信長のような天才と比較すると、やはりそこまで才能に秀でていなかったと思います。あるいはアイデアマンの豊臣秀吉のような、天才的なひらめきというものもなかったかもしれない。しかしそれだからこそ、生涯を通して、飽くことなく勉強を続けた人物だったのです。私はそこが家康の優れているところだったと考えています。
家康は自分の足りないところを補うために、学者や学僧、あるいはヨーロッパ人からも学んでいます。儒学者の藤原惺窩の講義を受け、彼の弟子の林羅山を家臣としました。また、僧侶の天海や金地院崇伝、ヨーロッパ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)やウィリアム・アダムズ(三浦按針)らをブレーンとしました。
また、先述したように征夷大将軍と名乗っている点や、『吾妻鏡』の収集といったエピソードを考えると、彼はよく歴史を学び、参考にして、熟慮しながら自分の行動を正していったのだろうと考えられます。
縁起を気にする家康が「江戸」を変えなかった理由
もうひとつ考えたいのは、家康が江戸を本拠にした際に、なぜ江戸という名前を変えなかったのかという点です。
若い頃の家康は岡崎から浜松へと拠点を移し、この浜松を長期にわたって本拠地としていました。武田信玄と対峙したのも、浜松城にいた頃です。
もともと浜松城は引馬城という名前でした。馬を引くという字面が、馬を連れて逃げるという意味ともとれることから、縁起が悪いと考えた家康は、周辺の地名である浜松という名前に改名させたという逸話があります。ちなみに、当時の武士が好んだ植物は、桜ではなく松でした。桜はすぐに散ってしまいますが、松は常緑でずっと続いていくという点が好まれたとされています。
それでは江戸の場合はどうか。家康は戦いに臨むとき、「厭離穢土、欣求浄土」という旗印を立てていました。これは帰依していた浄土宗に基づくもので、穢土、つまり汚れたこの世を嫌い、浄土を求めるという意味です。となると、「江戸」は穢土を連想させるわけですから、若い頃の家康であれば、引馬から浜松に改名させたように、江戸を改名させたのではないかと思うのです。
ところが、中年の家康はそうはしなかった。ここには学び続けた家康の精神性、メンタリティを見ることができるのではないでしょうか。