ねね、ね、おね、北政所、高台院……すべて、ひとりの女性を指している。
豊臣秀吉の正室だ。
ねねと秀吉は、政略結婚があたりまえだった戦国時代にあっては珍しく恋愛結婚だったとされている。
一説によれば、ねねにはじめて目をつけたのは織田信長だった。鷹狩りからの帰り、浅野長勝の屋敷に立ち寄ったとき、養女ねねが信長に茶を出した。よい娘だと思った信長は、「藤吉郎、この娘を妻にせよ」と命じたという。
半農半兵の家に生まれ、織田信長の草履取りをしていた秀吉と、浅野家の養女だったねねの身分を比べると、ねねのほうが「上」だった。
秀吉が数え25歳、ねねが数え14歳のときだった。祝言は浅野の家でおこなったが、簀子のうえに藁を敷き、さらにその上に薄縁を敷いて席を作ったという。
秀吉と結婚したねねは、姑のなか(大政所)とは同じ家に住み、じつの母娘のように仲が良かった。だが、ねねと秀吉のあいだに子は生まれなかった。つまり、「石女(うまずめ)」だった。
子供ができない妻ねねと夫秀吉の夫婦仲はどうだったのかというと……良かった。
ねねは勝ち気で、秀吉とふたりのときには、たがいに出身の尾張弁丸出しで話をしていた。
その荒々しい調子は、そばで聞いていると、まるで夫婦喧嘩をしているようだったという。
身分の差もあり、秀吉はねねに生涯頭が上がらなかった。
「かかあ天下」で、頭の上がらなかった秀吉は、ねねにたいしては、マメだった。
その一例が手紙だ。