浅井長政とお市の方の忘れ形見――淀殿、初、江の三姉妹。
この三姉妹のなかでは、大坂夏の陣で、息子豊臣秀頼とともに自害し、露と散った淀殿がいちばん有名だ。
三女の江(崇源院)は、2011年のNHK大河ドラマで一躍有名になったといっていい。
次女の初は、たとえドラマのなかで水川あさみ(ドラマ『のだめカンタービレ』を知っていると、上野樹里=野田恵、水川あさみ=三木清良を想像してしまうが)が演じていても、どうしても地味に映ってしまう。
豊臣秀吉の側室、豊臣秀頼の母である淀殿。
徳川家康の嫁、徳川秀忠の正室である江。
このふたりが、否が応でも目立つのは致し方ない。
それだけ、初の存在は地味になってしまう。
まして初が嫁いだのは、豊臣や徳川に比べると地味な京極高次だから、よけいだ。
ちなみに京極高次の母は浅井長政の姉だから、血筋的には、初とは「いとこ」にあたる。
やはり、初が嫁いだ先は地味なのか。
21世紀のいまから見れば地味、かもしれない。だが、戦国時代にあっては、けっして、そうではなかった。
京極氏は北近江の領主で、浅井家の主筋。まして室町時代には、数カ国の守護、そして幕府の四職を務めた名門中の名門。
京極家から見れば、豊臣家も徳川家も「どこの馬の骨とも知れぬ」家だった。
三姉妹のなかでは、もっとも格上の家に嫁いだのだ。いちばんプライドを保つことができたはずだ。
姉淀殿は、父浅井長政、養父柴田勝家、そして母の敵、豊臣秀吉の側室にされてしまった。
妹江は、そんな姉淀殿を滅ぼすことになる徳川家に嫁いだ。
初だけは、昔年の恨みに関係なく、結婚生活を送ることができた、もっとも「幸せ」な女性だったともいえる。
だが残念なことに、初と京極高次とのあいだに子はできなかった。子宝に恵まれることはなかった。いちばん「幸せ」なはずなのに。
だから初は、妹江の四女、夫と側室に生まれた嫡男らを、養子として迎え、育てた。
夫の「愛人」の子を育てるなど、現代では想像もつかない。初は、どんな思いで子育てをしたのだろうか……。
大坂の陣がはじまり、豊臣家と徳川家が争うことになったとき――。
「わたくしは、名門京極家の者なの。どこの馬の骨とも知れぬ豊臣家と徳川家の醜い争いなど知ったことではないわ」と言い放つこともできただろう。
だが初は、そんな冷たい態度はとらなかった。
大坂冬の陣を終結させるため、姉淀殿がいる豊臣方、妹江が嫁いでいる徳川方のあいだで、和議のため奔走した。
三姉妹は、NHK大河ドラマに描かれているように、生涯、仲が良かった。
初は、苦境に立っている姉、そして、その姉を攻める徳川家に嫁いだ妹を思い、和議を結ばせる努力をした。
自分の幸せのためではなく、姉と妹が幸せになるため、いや、姉と妹を対立する立場に置かせないために、生涯を捧げたといって過言ではない。
初が嫁いだ家は、天下をとった豊臣家でもなければ、幕府を開いた徳川家でもなかったからこそ、全体像を大きく鳥瞰し、的確に判断することができた。いま、なにをすべきかを冷静な目で見極めることができた。
苦境に立っている当事者、「中」にいる当事者は、価値観が偏るため、往々にして判断が誤りがちとなる。初のような「仲介者」の存在は、どんな世界でも、とても必要なのだ。