賤ヶ岳の戦いのあと、越前北庄城が落ちたさい、お市の方が柴田勝家と運命をともにしたため、3人の娘――茶々、初、江――は、羽柴秀吉の人質となった。実父浅井長政を滅ぼし、2人目の父柴田勝家、そして実母お市の方を死に追いやった憎き秀吉の保護を受けることになってしまったのだ。
3人姉妹にとっては屈辱以外のなにものでもない。
ところが、あろうことか秀吉は、長女茶々を側室にしてしまう。秀吉は、若いころから憧れの存在だったお市の方の血を受け継ぐ茶々を「愛人」にした、というわけだ。
茶々は淀城に住まわされたことから「淀」と呼ばれた。
淀殿は、31歳も年上の秀吉の側室として、一方的に寵愛された。淀殿にすれば、閨事(ねやごと)も「手込め」に等しかったはず。
淀殿は、秀吉の子「捨(すて)」を産んだ。「捨て子を拾うと成長する」という迷信からだ。
秀吉と正室ねね(北政所)のあいだに子がいなかったため、豊臣家の跡取りを産んだ淀殿の立場はあがることになった。
だが捨が夭逝してしまう。
次に生まれた男の子は「拾(ひろい)」と命名された。長男を「捨」と名づけたから夭逝したと思ったからだった。この拾こそ、のちの豊臣秀頼だ。
淀殿が産んだふたりの子の父親は秀吉ではないという噂は、当時からあった。正室ねねとのあいだに子がなかったから、秀吉に「種」がないというのが理由だ。「捨」「拾」の実の父と言われているのは、大野治長。淀殿の乳母の子で、いちばん可能性があるとされている。
実の父がだれであれ、秀吉は淀殿を一方的に寵愛し、夭逝しなかった「拾」を可愛がった。
豊臣家における淀殿の地位は、どんどん高くなっていった。それは秀吉の死後、さらに顕著となる。正室ねねは剃髪して高台院となり、淀殿は大坂城に残った。表向き、豊臣家当主は秀頼となったが、後見として淀殿が権力を掌握するようになった。
秀吉の死後、配下の武将たちは、新興勢力の徳川家康につくか、豊臣恩顧の武将として残るか二者択一を迫られる。
関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧の石田三成が大将となり、毛利輝元が総大将に担がれて大坂城に入った。三成の背後では、淀殿が糸を引いていた。
関ヶ原の戦いで西軍を破り、江戸に幕府を開いた家康は大御所となり、秀忠に将軍位を譲って、秀頼に拝謁を命じる書状を送った。関ヶ原の戦いののち、豊臣家は一大名に没落していたから、その立場をわからせるのが目的だった。だが淀殿は拒絶する。秀頼は拝謁するのだが、淀殿は怒りどおしだった。
家康にすれば、秀頼が生きているかぎり豊臣家を根絶やしにできない。いつまた三成のような者が秀頼を担いで挙兵するともかぎらないため、いちゃもんをつけて大坂の陣を起こす。家康にとって豊臣家は、それだけ怖い存在だったともいえる。
大坂冬の陣、夏の陣の結果、淀殿はわが子秀頼とともに自害し、豊臣家は滅びる。
江戸時代初期、豊臣方だった真田幸村らの人気が高いことを知った幕府は、遊女に用いられる「君」をつけ「淀君」と呼ぶようになった。淀殿に「悪女」のレッテルを貼った。
もし淀殿が「捨」「拾」のふたりの子を産まなければ、ひとりの「愛人」としてしか記録に残らなかっただろう。
憎き秀吉の「愛人」に成り果てた淀殿は、後半生のすべてが「余生」だった。
憎き豊臣家を守らなければならないという矛盾を抱えた後半生を貫かねばならなかった淀殿の存在は悲しいが、鋼のように強く、家康をも恐れさせた。
世の男性諸氏、「女は強し」「女は怖し」ですよ。