世に言う「直江状」。
上杉家の執政、上杉景勝の「ナンバー2」として知られる直江兼続の名を知らしめたものだ。「直江状」とは、いかなるものなのか。
天下を狙う石田三成が徳川家康と秀忠を討つため、兼続と面会して秘策を乞うたところ、こんな回答がもどってきた。
「徳川父子は関東八州を領し、会津の蒲生氏郷(がもううじさと)と仲が良い。このままでは容易には勝てないでしょう。まず氏郷を滅ぼし、わが主、上杉景勝に会津を賜れば、かならずや旗を揚げて先陣を切りましょう。そのとき三成殿は西国諸将を集めて関東に押し寄せてください。そうすれば徳川父子を討ち滅ぼすことができます」
この密謀ののち、上杉景勝が会津で挙兵の準備をはじめていることを知った家康は、上洛して言い訳をするよう詰問状を送りつけた。これにたいして上杉家執政の兼続が、家康の知恵袋・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に返した書状が、俗に「直江状」と呼ばれているものだ。
兼続は、15条にわたって言い訳をつづって上杉景勝が悪くないことを強調、しかも噂を信じている送り主を嘲笑しているともとれる文言まであったため、家康は激怒。家康は上杉領会津攻めを断行し、その隙をついて石田三成が挙兵したため、関ヶ原の戦いの火蓋が切って落とされる。
そのまま家康が会津に攻め入っていれば、上杉と石田三成による「挟撃」も可能だったが、三成挙兵を知った家康が急遽、下野国小山(おやま)から軍をとって返したことは計算外だっただろう。
軍を西に返す家康を背後から攻めようと主張した兼続にたいし、上杉景勝が「悪人の汚名を末代までこうむることになる」と拒否したのは有名。
この瞬間に、関ヶ原の戦いの結果が見えたといっても過言ではない。
「直江状」そのものは現物が存在しないため偽作ともされる。また上杉家からなんらかの返書があり、それを読んだ家康が激怒した、もしくは家康はすべてを見抜いていたため激怒するフリをしただけ、という意見まである。
「直江状」の逸話は、いかにも「ありえそう」だ。「直江兼続ならばさもありなん」とだれもに思わせるだけの力があった。それだけ兼続の武将としての評判は高く、全国に知れ渡っていた。