酒井忠次(ただつぐ)・本多忠勝(ただかつ)・榊原康政(やすまさ)・井伊直政(なおまさ)を「家康四天王」という。このうち徳川家康より15も年長で、関ヶ原の戦いの4年前に他界した酒井忠次を除いた3人をとくに「家康の三傑」と呼ぶ。この3人ないし4人は「家康の16将」のトップにも名を連ねている。

「三傑」のうち、本多忠勝と榊原康政は同い歳で、家康より6歳若く、井伊直政だけが家康より19歳も若かった。

「三傑」が、その名を世に知らしめたのは、家康が羽柴秀吉と刃を交えた小牧・長久手の戦いだった。

蒲生氏郷・加藤清正・福島正則といった武将を擁していたにもかかわらず、秀吉は、家康軍の「三傑」の活躍を見て驚嘆した。

史料によれば、戦さのあと、家康の名代として上洛した3人を見た秀吉が「徳川家の三傑」と唱えたとされる。当時から「三傑」は有名だったのだ。

いちばん若い井伊直政は「井伊の赤備え」で知られる猛将だったが、関ヶ原の戦いの終盤、「敵中突破」した薩摩の島津義弘隊を追撃した際に重傷を負い、これがもとで2年後の慶長7年(1602)に数え42で他界した。ゆえに家康が江戸に幕府を開く姿を見ることは叶わなかった。

家康の晴れの姿を見ることができたのは、榊原康政と本多忠勝の2人。

康政は慶長11年(1606)、本多忠勝は慶長15年(1610)まで生きながらえている。元和2年(1616)まで生きた家康には及ばないものの、主君の生涯を支え続けた「ナンバー2」といって過言ではない。

この2人の評価を大きく分けたのは関ヶ原の戦いだった。

忠勝は井伊直政とともに関ヶ原の戦いで獅子奮迅することができたが、康政は徳川秀忠率いる東山道軍に付き従っていたため、信州上田で真田昌幸に行く手を阻まれて関ヶ原に参戦することが叶わなかったのだ。結果的には「損」な役回りを演じることになってしまった。