「羽柴秀長」といえば、堺屋太一氏の『豊臣秀長――ある補佐役の生涯』を思い出す人も多いだろう。ゆえにか、「羽柴秀長=補佐役」のイメージが強い。
では、なにをもって「補佐役」というのだろうか。
秀長が、ほかの「ナンバー2」と異なっているところは、豊臣秀吉の弟、という点につきる。
天文10(1541)年、秀長は秀吉の5歳年下の異父弟として生まれた。一説に同父弟ともいう。幼名は小一郎。丹羽長秀にならって「長秀」を名乗った時期があるが、のち秀長と改めた。
秀長が武将として頭角をあらわしたのは、織田信長政権下における、秀吉の中国攻めだ。信長が本能寺で急死して以降は、秀吉の片腕として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀伊攻めなど主立った戦さに加わり、四国攻めでは秀吉の名代を果たし、大和・紀伊両国に、和泉・伊賀の一部を加えた100万石を領することとなる。
秀長は、秀吉の異父弟のせいか、はたまた秀吉が若いころから武士を夢見て家を出ていたためか、ともに過ごすことはなかった。秀長が仕えるようになったのは、秀吉がねねと結婚して、部下をもてる身分になって以降とされている。
なぜ秀吉は、弟秀長を部下にしようと思ったのか。ただの「コネ入社」ではあるまい。
武士になるために家を飛び出したがため、ろくに漢字も書けなかった秀吉と異なり、秀長には「学」があった。秀吉にないものを、秀長はもっていた。秀吉は、そこに目をつけたのだろう。
秀吉がはじめに秀長に与えた仕事は、書状の代筆、つまり右筆の役割だったはずだ。右筆という立場は、主君の考え方、行動のすべてを把握できる立場にある。秀長は秀吉の右筆として過ごしながら、「武士」というものを学び、「政治」を身につけていくことができたのだ。
だが武士としてのタイプは、秀吉と秀長は、まったく異なっていた。
秀吉が、目端が利き、弁舌巧みで、実行力のある「動」の武将だとすれば、秀長は「静」の武将だった。
信長のもとで出世していく秀吉の右腕として、つねにそばにいる秀長は、かえって目立ったにちがいない。