秀吉の部下たちからも、ほかの武将たちからも、「秀長は有能な秘書」と見えていたはずだ。秀吉よりも相談をもちかけやすかったことだろう。
秀長自身が己をいかに判断していたか知らないが、周囲の者たちは「秀長がいなければ政治は動かない」「秀長がいなければ秀吉はなにもできない」くらいに思っていたことは想像に難くない。
だからといって、ここで勘違いを起こさないのが、秀長のえらいところ。
つねに秀吉に従い、「縁の下の力持ち」に徹した。おそらく、一度や二度、三度や四度は、秀吉の判断にたいして「そうではない」と異議を唱えることもあっただろう。秀吉に諫言することもあっただろう。だが秀長は、秀吉に並び立とうとか、まして秀吉の上に立とうなどとは思わなかった。
人には、それぞれ「分」というものがあり、その「分」を入れる「器」に差があることを秀長は知っていた。それが羽柴秀長という男だった。
秀長は、天正19(1591)年1月22日に病没する。だが、わずか1ヵ月後、秀吉は千利休を切腹させ、さらに周囲の反対を押し切って朝鮮出兵を断行し、甥秀次を死に追いやる、という「愚行」を繰り返すこととなる。
もし秀長がそばにいて、しっかり監視していれば、日本の歴史も少しは変わっていたかもしれない。
それほどに、秀吉にとって秀長が大きな存在だったと言えるのだ。