永禄3年(1560)5月、駿河・遠江・三河を領する今川義元が2万5千の兵を率いて西進。尾張に侵攻し、桶狭間まで進んだところで、わずか2千の兵を率いた若き織田信長に討たれた。
桶狭間の戦いだ。
この戦さは、織田信長の評価を上げるいっぽうで、今川義元の評価を下げた。いや、地に落とすことになった。あまりに情けなく呆気ない最後ゆえ、だ。
歴史に「もしも」は禁物だが、それを承知で語る。
桶狭間の戦いを抜きをして見れば、今川義元は駿河・遠江・三河という東海道の要衝を押さえ、関東の北条、甲斐の武田、美濃・尾張の織田と対等かそれ以上に渡り合っていた立派な武将だった。「海道一の弓取り」とも言われていた。
織田に侵略された三河の松平が助けを求めてくると出兵。松平が織田にとられていた人質竹千代(たけちよ:のち徳川家康)を奪回し、今川のもとで過ごさせた。
さらに北条・武田と三国同盟を結んで「不可侵条約」を締結したのも今川義元だ。義元の娘が信玄の長男義信に嫁ぎ、信玄の娘が北条氏康の子氏政に嫁ぎ、北条氏康の娘が今川義元の子氏真に嫁いだ。三者それぞれの娘を他家に人質に出すことで、三国同盟は成立した。
三国のなかで、もっとも「天下人」に近かったといってもいい。
また領国内にあっては検地を実施し、父氏親の制定した分国法『仮名目録(かなもくろく)』に21ヵ条を追加するなど見るべきものも多い。
だが、これらは義元ひとりでなしえたものではない。
ひとりの禅僧がいたおかげだ。
その名は―― 太原雪斎(たいげんせっさい:太原崇孚(たいげんそうふ)とも)という。
今川家の重臣の家(父庵原(いはら)氏、母方は興津(おきつ)氏)に生まれた雪斎は、幼くして出家。やがて23歳年下の承芳(しょうほう:のち今川義元)とともに、富士郡の善得寺、さらに京都五山のひとつ建仁寺(けんにんじ)で修行を重ねた。そのころは今川氏親(うじちか)から息子承芳の教育係を依頼されていた。