「織田信長の四天王」というフレーズがある。『広辞苑』によれば「柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・明智光秀」の4人のことらしい。
「独裁者」のイメージが強く、ワンマン社長的存在だった信長には「四天王」というフレーズは似つかわしくないようにも思える。また信長に「ナンバー2」がいたのかと眉に唾のひとつもつけたくなるというもの。
だが、どんなワンマン社長であっても、ひとりでなにもかも仕事をこなせるはずはない。有能な部下がいなければ会社の経営はままならない。
「四天王」のなかで、もっとも有名なのは、「織田株式会社」の渉外担当として、また秘書室長として活躍し、のちに反旗を翻し、社長信長を本能寺に襲った明智光秀だろう。光秀こそ信長の「ナンバー2」という見方もある。
その信長の死後、「織田株式会社」の「次期社長」を決める取締役会、清洲会議の席上、信長の次男信雄、信長の三男信孝のどちらかが就任するだろうと、だれもが思っていた。だが、山崎の戦いで光秀を討った羽柴秀吉が、本能寺の変で自害した長男信忠の遺児三法師(のち秀信)を担ぎ出し、みずから後見人となって、「織田株式会社」の専務取締役に就任してしまった。
この清洲会議の結果を快く思わなかったのが、われこそは「織田株式会社」を支えてきたと自負してきた取締役第一営業部長・第二営業部長ともいうべき滝川一益と柴田勝家だった。
三男信孝を次期社長にしようとしていた一益と勝家は同盟を組んで秀吉と戦った。すぐに一益は秀吉に降伏するが、頑固な勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れ、北庄城において、信長の妹お市の方とともに自害して果てる。
「織田信長の四天王」のなかにあって、清洲会議後、秀吉に対抗しようとしなかったのが、「織田株式会社」の総務部長ともいうべき丹羽長秀だった。