現代のように、電話、メールはおろか郵便制度もなかった戦国時代は、だれもが筆まめだったが、残されている手紙から、秀吉がねねを気遣っている様子がわかる。

秀吉は、手紙のなかでは、つねに、ねねの身体を気遣い、「ねねに会いたい」という恋文まで送っている。

それほど秀吉は、ねねに気遣っていたが、そもそもが女好きなものだから、しっかり浮気もしていた。

信長がねねに宛てた手紙に、秀吉の浮気の証拠がある。

夫秀吉の浮気に焼き餅をやくねねに「あのハゲネズミ(秀吉)があなたほど素晴らしい女性を、ほかに得られるはずはないのだから、あなたは奥方らしく鷹揚にかまえて、軽々しく焼き餅などをやいてはいけません。この手紙は秀吉にも見せてやりなさい」と書いている。

秀吉が浮気をしている事実、そして、秀吉をいさめる内容にもなっている。秀吉は浮気はするが、やはり基本は愛妻家で、恐妻家だった。

それでも浮気の虫がおさまることはなく、甥の秀次に関白職をゆずるさい、秀吉は秀次にたいして、「女狂いがすぎて、わたしのマネをしてはいけない。妾は5人でも10人でも家のなかに置いてかまわないが、外に女をつくってはならない」という内容のことを申し伝えている。

その秀吉は、信長に仕えてからずっと、信長の妹お市の方に惚れつづけていた。

夫秀吉が、お市の方に惚れていることなど、ねねは百も承知だっただろう。だが、ねねは、そんなことはおくびにも出さなかった。

夫秀吉の死後、側室淀殿のもとに豊臣方(西軍)諸将が接近し、高台院(北政所、ねね)のもとには徳川方(東軍)諸将が接近し、関ヶ原の戦いの遠因になったともされる。いっぽうで、淀殿と高台院は仲が良かったとの説もある。

子に恵まれなくても、ねねは生涯、秀吉の妻として堂々と添いとげ、秀吉を支えつづけた。

妻は強し。