自分が好きなことを仕事というカタチにしているヒトたちを追う本連載。第一弾「ビストロパパ」滝村雅晴さんの後編です。(前編はこちら)


 

滝村雅晴(たきむら・まさはる)●パパ料理研究家、ビストロパパ代表取締役、「パパごはんの日」プロジェクト代表・発起人

1970年京都府生まれ。93年人材採用会社にて主に新卒採用業務ののち、95年デジタルハリウッド株式会社の創立時に入社。スタートアップに関わる。2009年4月株式会社ビストロパパを立ち上げ、パパ料理研究家として活動。著書に「ママと子どもに作ってあげたい パパごはん」(マガジンハウス)などがある。

>>オフィシャルブログ「ビストロパパ パパ料理のススメ」

柴田励司(しばた・れいじ)●インディゴ・ブルー代表取締役社長

1962年、東京都生まれ。85年上智大学文学部卒業後、京王プラザホテル入社。在蘭日本大使館、京王プラザホテル人事部を経て、世界最大の人事コンサルティング会社の日本法人である現マーサージャパン入社。2000年日本法人社長就任。その後、キャドセンター社長、デジタルハリウッド社長、カルチュア・コンビニエンス・クラブ代表取締役COOなどを歴任して現職。

>>Indigo Blueのウェブサイト


30代になり自分とマーケットが大きく離れてしまった

――ブログを一日も休まずに3年間続けた。ここに起業に必要な情熱を感じます。一方で冷静にマーケティング的な分析もしている。「料理が好きな人・嫌いな人」と「男・女」の2軸の掛け合わせ。ものすごく納得感があるのですが、この棲み分け分類はビストロパパを始める前から気づいていた、それとも、やりながら気づいたのでしょうか。

同時……ですね。

――気がついてみたらそうだな、という感じ。

はい。本質的なものって急に分かる瞬間があると思うのです。

デジハリに入ったばかりの頃、杉山(知之・現デジタルハリウッド学長)先生という方が、皆がまだ知らない、これから到来する世の中について教えてくれました。はじめは分からない。けれどそれについていっていました。すると突然分かるときがくるんです。はじめはウケウリで広報として喋っていたのに、“あ、こういうことで世の中って変わるんだ”ということに、気がつく瞬間がありました。

――自分の言葉で喋れるようになるんですね。

そうですね。みんなが気づいていない半歩先のものに気がついて、世の中の人に伝えているということに興奮しました。ところが、その後でちょっと変わってきました。

当時自分は20代。同じ世代の人に、これからはこれがくるぞということでWEBデザイナーやCGクリエイターのような働き方を勧めていました。けれど、そこから時間が経って自分が30代半ばになり、反対にターゲットが高校生くらいになってきている。そんなふうに自分とマーケットが大きく離れてくると、誰かがマーケティングをしたものをジャッジするというような役回りに変わってくる。

20代の頃のように、自ら企画をして走っていくというのと違う、違和感みたいなものを感じるようになってきました。

――いわゆる管理職になると、自分で語っていくということがだんだんできなくなっていく。それをやる人を指導したり、管理するのが仕事になっていく。一方でデジハリもメジャーになると、その存在そのものが一般化してしまう。そうなると企業の論理みたいなものが、どうしても前面に出てきてしまう。その辺に、ちょっと違うなと感じていたのでしょうか。

そうですね。ただ、そのように思いながら働くと「この会社に居たくないのに働いている」っていうことになりますよね。僕はそんなことはなかった。

僕はこれまで、本当は辞めたいし会社が嫌なんだけれど会社に残っているという人をみると、すぐに辞めればいいのにと思ってきました。

だから本当に辞めるという決断をするまでは自分が辞める想像はしていなかったです。ましてやまさか自分が独立起業するとは思っていなかった。

――背中を押されたのは、何がきっかけですか。

立ち上げメンバーであった藤本さんから、柴田さんに社長が代わったことで、時代の転換を感じたんです。

――あ、僕のせい?(笑)

いやいや(笑)。ひと通り時代の区切りがついたんです。僕も14年働いてデジハリも大学をつくるなど次のステージに移ってきていた。そうしたことが折り重なって決断できたんです。それが2008年10月頃ですね。

――先ほど図を書いて説明してくれたように「パパ料理」はだれもやっていないブルーオーシャン。そういう意味で今後の可能性は素晴らしいのですが、誰もやっていないということは認知もないということ。どうやって認知をここまで高めたのですか? それと、デジハリを辞めて、独立する際に周囲の冷ややかな目とか、ネガティブな反応はありましたか。

反応は2つあって、「今だから言うけれど、大丈夫か?と思っていた」という人はたくさんいましたね。はじめに伝えてしまうと僕の勢いを挫いてしまうと思って、まあ頑張れよとしか言いようがなかったのでしょう。

もう1つは、名刺を出すときの相手の対応が変わりました。実は、パパ料理研究家でやっていくことに決めて退社が確定している準備の期間には、名刺2枚セットで自己紹介をし続けていました。

14年も勤め「デジハリの滝村」だというのが骨の髄までしみついていましたし、こうした自己紹介の場面ではこれまで「デジハリ」のつかみで共通の知り合いなどの話が広がっていくのが普通だったんです。けれど比較的早い段階から、「デジハリ」、より「パパ料理」という掴みのほうに初対面の方の興味関心が移っていった。これがはっきりとした自信になっていきましたね。

――それはすごく象徴的ですね。もともと身を置いていたのはみんなが知っている「デジハリ」という組織であり、滝村さんはそのスポークスマンだったわけですよね。ところがその肩書ではなく、「自分」を前面に出した「パパ料理」のほうがみなの興味をひいた。デジハリに勝っちゃったわけですね。

特に僕はデジハリの最初の社員だったので、その自負が強かった。それを言わなくなったというのは大きいです。初対面のときの情報として多すぎると思って優先順位でスパッと元デジハリというフレーズを切ったときにさらに一歩進んだような気がしました。