海外の学説を借りる人 歴史を語りたがる人

橋下市長と対決して簡単に葬り去られるような人たちをそもそも「識者」と呼べるのかどうかは疑問だ。さらに、彼らは自分自身の主張を持っていないのではないかと、私はいつも感じる。私なりに分析すると、日本の識者はいくつかのカテゴリーに分かれる。一つは海外の学者の説を借りてきて自分の考えのように主張するタイプである。たとえば世界的に著名な経済学者のポール・クルーグマンがインフレターゲットの必要性を説けば、「クルーグマン先生は……」と言って、日銀批判を始める。クルーグマンが日本の状況を知らないで論じているにもかかわらず、である。そして相手が引用元を知らないとわかるやいなや、あたかも自分の意見のように言い始めるのだ。

それから“歴史”を語りたがるタイプである。たとえば話の中に戦国武将や維新の志士を持ち出してきて、成功事例を失敗事例と重ねて解説し、「同じ轍を踏まないように……」と言い始める。そして、出てくる事例は事実とは関係なく、いつも同じ個所だったりするのだ。中国の故事を引っ張り出して聴衆を煙に巻くのが得意な輩もいる。

もう一つは、自分が育ってきた時代や環境からの世界観や価値観に拠った見方しかできないタイプだ。先日もある人と議論して橋下市長への支援を要請したところ、「支援するために橋下氏が保守であることを確認しなければならない」などというのだ。そもそも“保守”という言葉の定義そのものも曖昧なのに、すぐに「保守」「革新」と色分けして符号を付けたがる。

私の経験則でいえば、「識者」と言われる人たちは大体この3タイプに分かれる。彼らに共通しているのは、自分の主張に中身がないこと。さらに、この10年間の世界の大きな変化が自分の立ち位置に織り込まれておらず、いまだに「日米関係が基本」とか「米ソ時代の日本の役割」などを繰り返す識者もいて、時代認識が全くアップデートされていないことに驚くばかりだ。

この10年間に起こった世界の変化は凄まじく、もはやG7、G8の先進国中心の時代ではなく、インドや中国、ブラジルなどの新興国を含めたG20の多極化時代に突入しているのだ。