赤字続きの新工場活路拓く「前進力」

<strong>石村和彦 いしむら・かずひこ</strong>●1954年、兵庫県生まれ。79年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了、旭硝子入社。97年設備技術研究所硝子担当部長、2000年旭硝子ファインテクノ社長、04年関西工場長、06年執行役員、07年上席執行役員、08年社長兼COO、10年社長兼CEO。
旭硝子社長 石村和彦 いしむら・かずひこ●1954年、兵庫県生まれ。79年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了、旭硝子入社。97年設備技術研究所硝子担当部長、2000年旭硝子ファインテクノ社長、04年関西工場長、06年執行役員、07年上席執行役員、08年社長兼COO、10年社長兼CEO。

多くの組織で、みえない壁をつくってしまい、互いに溶け合おうとしない。それが、活力を大きく殺いでいる。役所の「縦割り」も、その典型的な一つだ。でも、人間にあるのは、他人と張り合う気持ちだけではない。みんなと一緒に何かを成し遂げることは、喜びであり、次の挑戦へと進む力の源泉となる。小さくても、そういう経験を持つことができれば、組織は驚くほど前進する。

1990年代の半ば、山形県米沢市の工場で、そんな「前進力」を体験した。当時、米沢では、液晶などに使う薄いガラスの表面を平らにする研磨機の改良に、苦しんでいた。他メーカーとは違って、「フロート法」と呼ぶ工法を採り、より高い生産性を目指したが、表面を磨く作業が必要だった。神奈川県・鶴見のエンジニアリング部設備技術研究所の硝子グループリーダーとして、その研磨機の開発部隊を率いていた。

だが、創り出した機械を据え付けても、なかなかうまくいかない。薄いガラスを通すと、ときに、バリバリと割れてしまう。何度も米沢へ足を運び、改良を試みるが、成果が出ない。ついには、現場の製造部隊から「あの機械は石村のところがつくったのだから、あいつら開発部隊が悪い」との声が、公然と出た。製造は製造、開発は開発で、ベクトルが全くそろっていなかった。

工場には、400億円が投じられた。バブルの余熱があったころ、研磨機の開発が完成しないうちにゴーサインが出た。ところが、月産4万平方メートルの製品をつくる計画に対し、40分の1しかできない。赤字を垂れ流し、本社の会議で「どうするのか」と言われ、針のむしろだった。でも、どんなに辛くても、やり抜くつもりで、逃げ出す気などはない。40代に入ったころだった。

あるとき、現場をじっとみていた製造部隊の人が「ひょっとして、ガラスがちょっと反っていないか」と言ってきた。そこで、きちんと測定したガラスを選び、やり直す。すると、割れることもなく、うまく流れた。機械だけではなく、ガラスにも問題があった。ほんのわずかでも反っていれば、割れやすい。そんなミクロの世界の変形を、敵対していた製造部隊の人がみつけてくれた。

そういう成果があると、きっかけとなって、全体のベクトルが合うようになっていく。成果は、ちょっとしたことでもいい。それで、みんなが「おっ、いけそうだな」と思えたら、人間の力はすごい。協働が始まり、アイデアがどんどん出てくる。全く違う方向を向いてやっていた面々が、同じ方向へ進み出す。

一緒に喜びを味わえる成功体験をどうつくらせるか、それが大事だった。そこに、ハタと気づく。軌道に乗るまでに、3年近くが過ぎた。でも、それだけの間、あきらめずにやり抜いたからこそ、「前進力」が引き出せた。

「掘井九●、而不及泉、猶為棄井也」(井を掘ること九●(きゅうじん)にして、しかも泉に及ばざれば、なお井を棄つと為すなり)――いくら九●(一●は八尺)の深さまで井戸を掘り進んでも、水が出てくる前のところでやめてしまったら、井戸を棄てたのと同じだとの意味で、『孟子』にある言葉だ。本当にやりたいと思っている人なら、それが実現するまでやめないものだと、やり抜くことの大切さを説く。実現するまで逃げなかった石村流も、この教えに通じる。

1954年9月、兵庫県西宮市で生まれ、幼稚園に入る前に宝塚市へ移る。周囲は田畑や山林で、山に登って木の枝でチャンバラをして、日暮れまで遊ぶ。父と市内を流れる武庫川で、魚釣りも楽しむ。楽しいことがいっぱい詰まった時代だった。

灘中学から灘高校へ進み、東大では機械工学を専門に選ぶ。軟式テニス部に入り、3年のときにマネジャー役の主務となる。毎月一度、各部の主務が集まって、予算配分などを決める会議があり、いつも重なる授業があった。会議のほうに出ていたら、教授に「授業と部活のどちらが大事か」と聞かれ、「会議に出ないと予算が削られるので、そちらのほうが大事です」と答えた。それが縁となり、のちに、その教授の研究室で学ぶことになる。

※●は車の右に点と刀