1年弱で千時間中国への再挑戦
2000年4月、東京都江東区の公民館の大部屋を借りて、部下たち約10人を集めた。大リストラが断行され、使える会社施設がみつからなかった。がらんとした部屋に、ついたて型の掲示板を持ち込み、模造紙を貼り、議論を進めていく。紙には中国大陸の図が書かれ、地名や自動車会社名が次々に書き込まれた。
合宿のテーマは「中国進出を、どうするか?」。現地生産をするならどの企業と組み、どこに合弁工場をつくり、どの車種を投入するか。10年後の生産台数、市場シェアは、どのくらい見込めるか。議論は白熱し、深夜まで及ぶ。いったん解散して、翌日も続けた。46歳。常務執行役員に昇格し、欧米以外の海外担当になったばかりだった。
それまで約3年、企画室で仏ルノーとの提携や経営再建に没頭した。2兆8000億円と連結売上高の半額近い負債を抱え、苦境が続いた。でも、CEOとなったカルロス・ゴーン氏の改革が功を奏し、薄日が差してきた。性分から言えば、そうした再建計画をつくるより、営業など現場の実務のほうが合っている。担当替えを内示され、「よし、アジアでやるぞ」と自身に気合を入れた。
内示の少し前に、CEO室に呼ばれた。ゴーン氏が「志賀、中国戦略をちゃんとつくってやれ」と言う。企画室長の立場で戦略策定をしろという意味だと思ったが、話を聞いていくうちに、「おや」と思う。どうも、そうではない。最後に「グッドラック」と言われ、握手をされた。「もしかしたら、これは内示か?」と首を傾げながら、自室へ戻る。
合宿からひと月後の5月18日、経営会議に出した進出計画が了承された。合弁相手の候補は東風汽車。武漢から約200キロの湖北省・襄樊(ジョハン)に工場を持つ。中国政府は80年代後半、約120社もあった国内自動車会社の集約を目指し、「三大三小二微」を掲げた。三大とは第一、東風、上海、三小は北京、天津、広州で、二微が長安、貴州。海外勢の進出は、その8社のどれかと組むことが前提だ。やるなら、当然、力のある「三大」との合弁。だが、第一は独フォルクスワーゲンに続いてトヨタ自動車と組み、上海とはワーゲンや米GMが先行していた。東風には、まだ大きなパートナーはない。
実は、84年から87年へかけても、中国進出を担当した。世界の自動車会社の第一次進出ブームのときで、新設された中国担当室へ呼ばれた。でも、第一汽車へのトラックの技術供与と完成車の輸出を組み合わせた「技貿結合」にとどまり、現地生産は見送られた。当時、日本ではバブルが始まり、高級車「シーマ」が大ヒット、「シーマ現象」という流行語も生まれた。そんな状況下、「わざわざ苦労して中国に行かなくても、日本で十分に稼げる」とのムードが業界に広まり、日本勢の出遅れが決定的となる。
再挑戦の合弁交渉はタフだった。1年弱で、延べ1000時間に達した。何度も武漢を訪れ、とことん議論をして詰める。それが、信頼関係を盤石にした。だが、ときには激しい衝突もあった。話が煮詰まり、互いに感情的になったときは、相手の責任者と2人で会場の中庭へ出る。庭は、武漢にある「五湖」の一つにつながり、橋を渡って10分ほど行くと、塔が建っている。その最上部に茶を飲む場所があり、2人で黙って熱い中国茶を飲む。物音一つ聞こえない。静かな湖面を眺め、心を鎮めて、また戻って交渉を再開した。
どんな仕事でも、難しいことに遭遇する。「だめかな」と思うときもあるが、粘り強く貫けば、最後にはいいことも起こる。時間がかかっても、無理に先を急いではいけない。たまには気分を変えて、頭を冷やすことも大事だ。持って生まれた前向き志向もあるが、自分にも部下たちにも、そう言い聞かせてきた。
「登高使人心曠、臨流使人意遠」(高きに登れば人をして心曠からしめ、流れに臨めば人をして意遠からしむ)――人は高いところに登れば心が広くなり、大きな流れの畔に立てば思いも遠くへ及ぶ、との意味だ。中国・明の洪自誠の著『菜根譚』にある言葉で、ときには環境を変え、気持ちを大きく持ち直す大切さを説く。志賀流は、この教えと重なる。
03年7月、東風と半々で出資した合弁会社が営業を開始した。「ティアナ」の生産が始まる。合宿から、3年余りがたっていた。