出発は「マリン」避けた父と同じ道

1953年9月、和歌山市で生まれた。父は自動車の修理会社に勤めていたが、小学校1年のころに和歌山日産のセールスマンに替わる。父が運転する「ダットサン」の助手席に、よく、ちょこんと座っていたことを、覚えている。中学校を卒業するとき、寄せ書きに「技術の日産、実力の志賀、ブルーバードSSS」と書いた。子どものときから、すぐそばに「日産」があった。

76年春、大阪府立大学経済学部を卒業し、入社した。配属先はモーターボート部。性格的に営業向きだと思ったが、父と同じ仕事は避けたい。英語に自信がなく、面接で「営業はやりたいが、車の国内営業と海外営業は嫌です。ほかにはないですか?」と聞いた。すると、「じゃあ、マリンがあるよ」と言われた。

日産は、以前からモーターボート用や船外機用のエンジンを扱っていたが、破綻した企業のモーターボート事業を買い取り、事業を拡大させた年だった。7年余り、津々浦々の港を回る。その後、先輩に引っ張られて極東大洋州部へ。全く違う仕事で、まるで転職したようだった。1年間、車のことを勉強していたら、前述の中国担当室へ呼ばれた。

05年4月、最高執行責任者(COO)に就任。いま、日本自動車工業会の会長も務めている。ルノーのトップを兼ねて多忙なゴーン氏の留守を預かり、日々の業務の責任者役だ。

昨年、日産の中国での販売台数は102万台と、計画を大きく上回った。市場シェアも、10年前の合宿で描いた夢の通りになる。GMやワーゲンにはまだ追いつかないが、日本勢でトップに立つ。競争相手と違って、全土の販売網を1社にまとめている点が、功を奏した。やはり、湖上の塔で何度も中国茶を飲んで頭を冷やしながら、合弁の条件を詰め切った「登高臨流」が大きい。

いまや中国は、世界一の自動車市場。正直言って、こんなに速く普及するとは、思っていなかった。日産も世界の販売台数408万台の4分の1を占め、もう稼ぎ頭だ。挫折があっても、いつの日か夢が適うと思って、黙々とやり、必要な勉強をしていれば、実現するときがくる。成果を眺めて、「人生というのは、そういうものなのだな」と思う。

夢が適って、そろそろ解禁してもいいかな、と思うことがある。大好きな『三国志』の諸葛孔明の里への訪問だ。東風の本拠地がある襄樊の郊外に古隆中という村があり、孔明の庵跡が残っている。劉備が三顧の礼をもって軍師に迎えた舞台だ。彼のような「参謀役」に惹かれる。

合弁交渉で襄樊を訪ねたとき、部下たちが「行きましょう」と誘ってくれた。でも、そういう名所旧跡へ行くと、もうその地に来なくなってしまうことになりがちだ。東風との関係は、もっと発展させたい。だから、縁起を担ぎ、我慢してきた。

経営学の本やビジネス書をずいぶん読んできたが、『三国志』から学ぶリーダーシップ論に優るものは少ない。日本人に好まれる劉備だけでなく、曹操も孫権もすごい。もちろん、孔明は別格だ。孔明は字(あざな)で、名前は諸葛亮。実は、その亮の字をもらい、最初に中国を担当した86年に生まれた次男の名を亮太とした。その次男も『三国志』の熱烈なファン。いつか、一緒に『三国志』巡りをする約束をしている。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)