欧米で宿った夢「中食産業」の創造
神戸で会社を設立して8年目の1980年初め、高島屋の幹部に誘われ、初めて首都圏に高級総菜店を出店する。相手は「君のところの未来は、絶対、東京にある。高島屋にも、デパ地下が強くなることが必要だ」と言い切った。背中を押され、3月に横浜高島屋、5月に東京の高島屋日本橋店の地下売り場に出店する。どちらも、関西で店を出していた「ガストロノミ」の名を掲げた。料理と文化の関係をきわめる、といった意味を持つフランス語だ。
横浜で、初日から驚いた。神戸で15万円ほどだった1日の売り上げが、180万円にもなった。首都圏の人々は、新しい「食」への反応が早く、強い。多様な富裕層がいて、美味しいものへのお金のかけ方も、予想をはるかに超えている。「これは、とんでもない市場だ。いずれ、東京のデパ地下へ本格的に進出しよう」と決めた。40歳になる年の春だった。
デパートの食品売り場と言えば、老舗の店が並ぶ「のれん街」。そこへ、神戸の総菜屋が乗り込み、新しいライフスタイルを提供する。女性の社会進出、高齢化の進展、独身者の増加などを背景に、持ち帰り用の総菜を扱う中食産業は、「失われた20年」の間も着実に成長を続け、全国の市場規模は8兆円を超えた。冬の時代が続くデパート業界を抜いて、もう1兆円も上回っている。
レストランのオーナーシェフをしていた70年、一人で初の欧米旅行へ出た。ミュンヘンで、調理済み食品「デリカテッセン」を売る店に入る。ハムやソーセージを中心とした総菜を、客が次々に買っていく。パリやミラノ、ニューヨークにも、同様の店がある。ニューヨークで「働く女性が多く、持ち帰りの総菜が売れる」と聞いて、頷いた。「日本にも、そんな時代がくる。そのときには、こんな店をやりたい」
欧米で宿った夢は、意外に早く実現する。72年6月、神戸大丸幹部の協力を得て、デリカテッセンを扱うロック・フィールドを設立、自分の姓を英語に直して社名にした。神戸大丸で並べた品は、ビーフシチューやグラタン、エスカルゴ、スモークサーモンなどだった。
高度成長が続き、日本人の懐も豊かになってきたから、高級総菜を日常的に使ってもらえる、と思っていた。だが、なかなか売れない。買ってくれるのは、何か集まりや祝い事がある「ハレの日」だけ。でも、挑戦の意欲は衰えない。年末や正月用に伊勢海老の料理やローストビーフを販売し、贈答品も手がけていく。
そんななか、高島屋大阪店に出した2号店で、北海道で厳選したホタテの照り焼きがヒットする。3個を串刺しにした品が、1日に1500本も出た。そこに、将来へのヒントがあった。素材の生かし方や日常的な総菜の強さ――中食産業のフロントランナーへの道に、灯がともる。
89年4月、神戸の元町に「神戸コロッケ」専門店を開く。ロック・フィールドを知らしめる定番商品がほしかった。北海道の男爵イモや神戸の牛肉、淡路島のタマネギなど素材にこだわり、レトロな味にして店頭で揚げ立てを売る。そう決めた。
だが、社内は「高級デリカのイメージを損なう」と反対ばかり。何度も説明した。「コロッケはデリカテッセンではないなどと、決めつけるな。フランス人の血液にはワインとチーズが流れていると言われるが、日本人の舌は醤油と味噌で育ってきた。その醤油とポテトをベースにしたコロッケは、絶対に評価される」
神戸コロッケは、大ヒットした。年間に5000万個も売れるまでになる。誰もが賛成するアイデアは、「驚き」「差別化」につながらず、未来がない。そんなことは、やりたくない。大半が反対するアイデアなら、やってみる。このとき、そんな「少数派志向」が定着した。
1940年9月、神戸市の元町で生まれる。5歳で母を失い、小学4年のときから近くで日本料理店をしていた人の家で暮らす。夜学の高校に通いながら、その店で働いた。やがて中退し、仕事に専念する。店は2年で辞め、喫茶店やお好み焼き屋などをしつつ、軍資金を貯めた。24歳のとき、神戸ステーキを中心とするレストランを開く。