ジャカルタでの「最後のチャンス」
1994年10月17日夜、ジャカルタを飛び立つ。現地の事務所長として、本社にインドネシアで生産を始める計画を出していた。翌18日朝の経営会議にかかる。アジア大洋州営業部でインドネシアの担当になってから7年3カ月。現地生産は何度も挫折し、41歳になっていた。「これが、最後のチャンス」。そう覚悟して、機中で眠る。
出かける前、妻に言った。「ジャカルタに来て3年たったし、また計画が否決されたら、もう引き上げよう」。妻は、不服そうな顔をした。ジャカルタでの日々に、満足していたのだ。それを振り切るように「計画が承認されたら、準備のために日本に残る。でも、ダメならすぐに戻るから、荷物をまとめて日本へ帰ろう。辞令はないが、ここにいても仕方ない」と言い残す。本気だった。
成田に朝8時に着いた。都内の妻の実家で、経営会議が終わるのを待つ。昼ごろ、アジア大洋州営業部へ電話を入れてみた。まだ、結論は出ていない。喫茶店で時間をつぶし、1時間後にまた電話した。すると、「志賀さん、通ったみたいですよ」という。急いで、本社へ向かう。エレベーターで10階へ上がり、部の部屋に入った途端、大きな拍手が湧いた。みんなが「わあ、志賀さん、通ったよ」と喜んでくれた。その光景を、いまでも、覚えている。ついに、夢が叶った瞬間だった。
インドネシア担当となった87年暮れ、現地生産の可否をみるため、初めてジャカルタの地を踏んだ。そこは、トヨタの独壇場だった。地元の部品会社もなく、一から始めれば膨大な資金が要る。「これは、無理だ」と思う。同行していた上司も同意見だ。ただ、「もう二度と来ることもないだろうから、バリ島へ寄ってから帰国しよう」と言われた。
いまの世では許されないことだが、お供をして行く。ホテルで出張報告書を書いていたら、バリ島がすっかり気に入った上司が「この国は、捨てがたい。やっぱり、やるか」と言い出した。ずいぶんいい加減な人だと思ったが、報告書の結論部分を消して、「難しいことはあるが、検討する価値はある」と書き直す。
帰国して、進出計画づくりが始まった。だが、91年3月、何度も練り直した案が、経営会議で否決される。会社はバブルに乗って投資を重ね、財務体質が悪化していた。株価下落が進み、バブル崩壊の兆しもみえて、新規投資は凍結された。
でも、諦めない。パートナーとなってくれたインドネシア人が、様々な条件整備に走り回ってくれた。その人に「会社がダメだと言うので、やれません。ご苦労をかけたけど、ごめんなさい」と言って、おしまいにするわけにはいかない。それに、何年も取り組んでいるうちに、インドネシアが大好きになっていた。
ジャカルタに駐在員事務所をつくる。現地生産は見送るが、販売網を築き、来るべきときに備える。事務所長には、自分が赴任する――そんな案を出し直すと、ほどなく認められた。91年10月、赴任する。
事務所は当初、丸紅のオフィスの一角を借りた。電話とファクスが1台、それに女性秘書が1人。トヨタは、大家族で動くインドネシア流に合った7人乗り多目的車を生産し、圧倒的に売れていた。日産は、税金が高い乗用車を部品を持ち込んで組み立てる方式で、年間約20万台と東南アジア最大の市場で1000台も売れない。仕事もなく、ファクス一枚届かない日々が続く。
ある日、日本人会の図書室をのぞくと、駐在した人が寄贈していった本が並んでいる。暇に任せ、ドラッカーら米国の経営書を読みあさる。リエンジニアリング、ベンチマーキング、ナレッジ・マネージメントなど、忙しければ知ることもなかっただろう言葉に触れて、刺激され、闘志を駆り立てられる。
その勢いで、帰国すれば「インドネシアでぜひ」と切り出した。うるさがられても、やめない。ついに、役員に「そんなにやりたければ、社長に頼んでこい」と言われた。その通りに、一人で社長に会いに行く。インドネシア市場の将来性を力説した。すると、「じゃあ、今度、行ってあげよう」と言う。まだ課長の分際の身にそこまで言ってくれた社長に、率直に「偉いなあ」と思う。しかも、座間工場の閉鎖など大リストラの最中に、本当にジャカルタへ来てくれた。そして、夢が叶う。