逃げずにやりぬく「石村塾」の手法

大学院へ進み、修士課程2年目の夏休みに、友人たちと工場巡りをした。いろいろな製造業をみて回ったなかに、先輩に誘われた旭硝子も入っていた。船橋の工場へ行くと、ブラウン管用のガラスを造っていた。就職する気はなかったのに、人事部の人が「就職希望」と誤解し、面接を設定されてしまう。まあいいか、と思って行き、そのまま決めた。

79年に入社、尼崎市の関西工場に配属され、フロート法でガラスをつくるプロセスの担当となる。英国企業から導入した工法だったが、よく製造機械が壊れた。だから、最初のころは修理の仕事ばかり。でも、それを重ねていくうちに、自然に機械に詳しくなっていく。

鶴見の設備技術研究所へ異動した翌年の88年、入社1年目の後輩たち4、5人に声をかけ、逗子にあった研修寮で「石村塾」を始めた。みんな基礎的なことも知らず、何かあるたびに、細かいことまで聞いてくる。同じことの繰り返しが面倒になり、仕事で必要なことだけでもまとめて教えようと思った。1泊2日で始めたが、「とても間に合わない」と思い、月曜日から土曜日までの6日間に延ばす。米沢プロジェクトが始まる直前で、始まってからも続けた。その後、正規の教育プログラムに組み込まれ、10年ほど続く。

講義を聞かせるだけではなくて、最初に「こういうテーマで、こういう機械を設計しなさい」と宿題を出す。それを解こうと思うと、講義をきちんと聞いていないとできない仕組みで、問題を解く時間は夜しかない。みんなで夜に一所懸命取り組ませ、結果を最終日に報告させた。やり抜くことが前提で、石村流に逃げ道はない。その手法は、いまでも、変わっていないかもしれない。

2008年3月、社長に就任し、最初に手がけたのが工場長の役割の見直しだ。関西工場長を務めたときに、安全と環境に責任は負っていても、生産やコストにはなく、それらの責任は各事業部から来ていた部長たちが負っていた。本社に「これなら、工場長の給料を課長級にしろ」と言ったが、ダメだった。いまでは工場長に、生産責任、コスト責任、品質責任を持たせている。

工場には、必ず毎年1回は行く。それまで社長が行っていなかった工場の中に「今年も、来られるんですか」と言った工場長がいたが、「ただ見学に行くのではない。去年よりどう変わったかを、みに行くのだ」と伝えたら、焦ったらしい。定点観測で、工場長のマネージメントぶりもみる。手間はかかるが、別に苦でもない。井戸は、水が出るまで、掘り続けなくてはいけない。

昨年8月、グループ内の技術者約4000人のデータベースをつくった。会社に必要な技術を26に分類し、それを細分化して、各人がどこに入り、技術水準はどのくらいかをデータ化した。これで、グループの技術分布がわかる。どんな技術が、どの程度の水準で、どこが強く、何が欠けているか、常に把握できる。

しかも、ある国でプロジェクトを始めるときに、必要な人材の要件を入力すれば、ダダダッと名前が出てくる。すぐにその国へ行けるかどうかわからないが、取捨選択し、プロジェクトメンバーを決めることはできる。いままでは、プロジェクトの責任者らが、知っている顔ぶればかりを集めていた。それでは、人材の最適配分にならない。「猶為棄井」になってしまい、人材の能力や可能性を掘り当てることができない。

「人は力なり」――米沢の立ち上げ役を与えてくれた上司の教えだ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)