野村克也さんの言葉は強い。だから選手たちは夜のミーティングでも決して寝落ちしなかったという。どんな言葉を使っていたのか。野村監督の番記者だった加藤弘士さんの著書『砂まみれの名将 野村克也の1140日』(新潮社)より紹介する――。(1回目)
都市対抗野球・シダックス―トヨタ自動車/野村監督
写真=時事通信フォト
2003年8月23日、試合中ベンチから身を乗り出すシダックス(調布市)の野村克也監督(東京ドーム)

阪神の監督から社会人野球・シダックスのGM兼監督に

2003年1月8日、シダックスGM兼監督としての新生活がスタートした。

平日は世田谷区玉川田園調布の自宅を出て、新宿のヒルトン東京に宿泊することになった。自宅から練習場となる調布市内のグラウンドへ車で向かうには、渋滞が避けられず、到着時刻が読めないからだ。

新宿から調布なら距離は離れるが、高速道路で約30分。通勤時の混雑とは逆方向となり、楽に行ける。

マネジャーの梅沢とは、毎朝午前10時にヒルトンのロビーで待ち合わせることに決めた。上下ジャージ姿。赤いスタジャンを着て、梅沢の運転する黒塗りのセドリックの後部座席に乗り込んだ。

調布インターチェンジを出ると、2年前に開場したばかりの東京スタジアムが見えてくる。

この巨大な競技場に隣接する調布市営の少年野球グラウンドが、シダックスの練習場だ。自前のグラウンドではない。

第二次世界大戦中、調布飛行場建設のために切り開かれ、戦後は米軍に接収されたエリアである。1963年からは米軍の軍人とその家族らの居住地区「関東村」となった。74年、国に返還され、一帯にはスポーツ施設や病院等が建てられた。

そんな経緯もあり、チーム関係者はグラウンドを「関東村」と呼んでいた。

砂埃が舞う中、セドリックが関東村の砂利道に現れると、ナインの間に緊張感が漂った。

到着するとすぐさま、梅沢が後部座席のドアを開ける。野村は車を降り、ゆっくりとグラウンドへ歩を進めた。

「おはようございます!」

待ち構えたナインが腹の底から大きな声であいさつした。

「1通も新年のあいさつが届かなかった」

訓示が始まった。

チームが進むべき新たな道筋とは。都市対抗出場に向けてやるべきこととは。打者なら1日300スイング。投手ならチェンジアップやフォークなどの落ちるボールを習得すべし。吹きすさぶ寒風とは対照的に、野村の口調は徐々に熱を帯びていった。

「人間的成長なくして技術的進歩なし」が野村の持論である。

いつしか話題は野球から離れ、選手たちの年末年始の習慣へと及んだ。

「この正月、君たちからは1通も新年のあいさつが届かなかった」