※本稿は、池上彰・上田紀行・伊藤亜紗『とがったリーダーを育てる 東工大「リベラルアーツ教育」10年の軌跡』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
「専門家の言うことは正しい」が変わった
新型コロナウイルスの世界的な流行で、日本も大混乱の渦中にあります。コロナ禍によって私たちは、これまで常識だと思っていたことが次々とくつがえされるという経験をしています。その一つに、「専門家」と呼ばれる人たちに対するこれまでのイメージが大きく変化したということがあげられます。
今回のような未知の感染症の世界的流行といった非常事態のもとでは、こういう対策を講じれば必ずこういう効果がもたらされるといった、いわば正解のような対応策はありません。誰も正解がわからないなかで、少しでも良い方向に向かうように試行錯誤を繰り返すしかありません。
これまで私たちは、「専門家」と呼ばれる人たちの言うことは正しいと、漠然と信じていました。その道のプロなのだから、間違ったことは言わない、だから彼らの言うことが絶対でファイナルアンサーなんだと、一般には思われていました。だから専門家の言うことには従ったほうがよいのだと。
ところが、今回のコロナ禍というまさに危機的状況のなかでは、専門家といえどもその知識は決して絶対的な正解などではなく、すべては条件付き、カッコ付きのもの。それが本当にいいのかはわからないけれども、この危機に立ち向かうためにとりあえずやってみるしかない。そういう事態を、いま私たちは経験しています。
「進みながら考える」ことが求められる
これは何を意味しているのでしょうか。専門家に対する、非専門家の私たちの態度が変化しつつあるのではないでしょうか。これまでの、専門家の言うことは正しいから従うという態度から、専門家の知識を運用して事態を少しでも良い方向にもっていこうという態度へ変化が起きているということではないでしょうか。
社会の中の専門家像にこうした変化が起きると、専門家と呼ばれる人たちの側にも変化が求められます。
自分たちはこの分野の専門家なのだから、常に正しいことを言わなければならない、間違ったことを言ってはならない、と考えていたら、ファイナルアンサーが出るまで何も言えません。でも、それでは今回のような危機的な非常事態においては、なんら専門的知識や能力を社会のために役立てることはできません。正解をどこまでも探求し続けているあいだに、取り返しのつかない事態を招いてしまうでしょう。
もちろんエビデンスをきちんと提示して「正しいことを言う」というのは重要なことです。しかし、専門家の態度として、刻々と状況が変化する中では、「進みながら考える」ことができなければなりません。試行錯誤の中で最善の策を考え説得力をもって提言するということが、専門家の力量としてきわめて重要であるということが、今回のコロナ禍でよくわかったのではないかと思うのです。
どうでしょうか、日本の専門家と呼ばれる知的エリートの人たちに、そうした力が備わっているでしょうか。とくに科学的根拠や科学的合理性が求められる今日の状況では、理系の専門家の役割は重大です。