バラバラな知識を運用する力が「教養」だ

複雑さを増す現代社会では、知識はどんどん細分化されバラバラな状態で存在しています。どれだけ多くの知識が蓄積されても、その知識をその時々の状況に応じて自由に運用する力がなければ、知識は無駄になってしまいます。多くの知識を知っているだけでは、これは単なる「物知り」です。「物知り」は、クイズには答えられるかもしれませんが、刻々と変化する状況のなかで、さまざまな情報をつなげて問題を解決するというときに、それだけでは通用しません。多様な知識を運用する力、これこそが現代社会を生ききるうえできわめて重要な能力なのです。

たとえば、新型コロナウイルスに関して、マスメディアを通して、あるいはSNS上で、さまざまな情報が流れてきます。何が正しいのか、どの情報を信じていいのか、わからなくなります。あの人はこう言っている、けれどもこの人はこう言っている、こういう見方もあればああいう見方もある。でも、ここでさまざまな情報の渦に巻き込まれて思考停止してしまったら、何もわからないままです。

情報
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いったん冷静になって、バラバラな情報や知識を、ならべてみたり、つなげてみたりしてみましょう。すると、この知識とあの知識は矛盾しているように見える、さらに別の知識を合わせてみると、「やはりおかしいぞ。これはフェイクだ」と気づくことができます。

このようにしてバラバラな知識を運用する力、これが「教養」の力であると、私は思います。

そういうものを、専門家であろうが非専門家であろうが関係なく、理系も文系も同じように身につけていかなければなりません。

原発事故を報じるテレビ番組に受けた衝撃

理系の専門家と呼ばれる人たちの言説に対して、私は違和感を覚えてきました。きっかけは2011年の東日本大震災のときの報道です。

じつはその直前に私は、テレビのレギュラー番組を全部やめ、もう一度勉強し直そうと思っていました。アウトプットするだけではなく、ここはインプットをしないとだめだと思って、学び直しを心に決めていたのです。ところがそう思っていたところに、東日本大震災が起きました。レギュラー番組から徐々に離れていたので、私は多くの人たちと同じように一視聴者としてあの大惨事の動向をテレビで見守っていました。

そこで私は強烈な違和感に襲われたのです。福島の原発事故が起きたときに、東大工学部や東工大工学部の先生が次々と出てきて、原子炉について説明するわけですが、専門的な用語ばかりで、いったい何が起きているのかまったくわからない。「ベクレル」とか「シーベルト」とか、それが何を意味するのか、すぐには理解できません。我々の世代は放射線の単位といえば「キュリー」ですから、それがいつの間にか「ベクレル」や「シーベルト」になっていた。これでは専門知識のない素人には、工学部の先生たちの解説がよく理解できないではないかと思ったのです。