過疎化、檀家減少、寄付減…そして「梵鐘の音、除夜の鐘で眠れない」

戦時中に回収から逃れた梵鐘は、当時の国宝、重要美術品に指定されているもののほか、「慶長年間以前の製造」が対象だった。先に、「日本における梵鐘はおおむね17世紀初頭以前の文化財級の古いものか、戦後につくられた新しいものかの2種類に分かれる」と述べたのはこうした理由からだ。

ただし、皇室が寄進したものや、菊の御紋入りなど皇室に関係する鐘や、慶長年間より新しくても美術的な価値が高いとみなされたものは一部、供出を免れている。

それでも各地の寺院が保有する大方の梵鐘は、消えた。梵鐘は戦前には約5万口あったとされるが、現在、江戸時代以前の鐘は3000口ほどしか残っていないとされている。

消えた梵鐘の中には、当時世界最大級だった大阪・四天王寺の梵鐘も含まれていた。この梵鐘は1921(大正10)年に予定された「聖徳太子一三〇〇年御聖忌(回忌)」の記念事業の一環として、鋳造されている。

高さ約8メートル、胴回り約16メートル、重さ約64トンの、巨体であった。鋳造費は当時の金額で26万円(現在の価値では9億4000万円ほど)。しかし、明治期の新しい梵鐘であったために、鋳造からわずか30年後の1943(昭和17)年11月に地上に下ろされ、バラバラに解体されて武器の原料とされた。

ちなみに供出を免れた梵鐘で現在、世界一の重量を誇るのが方広寺(京都市東山区)の梵鐘だ。「国家安康」「君臣豊楽」と書かれた文言に徳川家康が言いがかりをつけたことで知られる。豊臣家が滅されるきっかけになったこの梵鐘は、高さ約4メートルにたいし、重さ83トン。重さでは方広寺に軍配が上がるが、サイズは四天王寺の鐘のほうが倍近く大きい。方広寺の梵鐘は慶長19年の鋳造であったため、ギリギリ供出を免れた。

国内最大級の大きさを誇る知恩院(京都府東山区)の梵鐘
撮影=鵜飼秀徳
国内最大級の大きさを誇る知恩院(京都府東山区)の梵鐘

戦後の混乱が収まり、寺も資金的な余裕ができた高度成長からバブル期にかけて、失われた梵鐘が造り直された。老子製造所は供出された梵鐘の再鋳の需要を担っていたわけだ。

ところが、バブル崩壊後は寺の経営にもかげりが見えだす。また、地方の過疎化、人口減少によって檀家数が減少し、高齢化も相まって寺への寄付も減っている。

さらには、「梵鐘の音がうるさい」「除夜の鐘で眠れない」などのクレーム社会の煽りも受け、最近では寺院が梵鐘を鋳造することをためらっている。

直近ではコロナ禍の影響も少なからずある。寺が梵鐘を造るタイミングは、「開山500年」「開山上人生誕800年」などの記念法要の時だ。そうした大法要がコロナ禍で中止に追い込まれているのだ。

このたびの日本最大の梵鐘メーカーの経営破綻の理由は、悲しい戦争の歴史に伴う特需のリバウンド、過度に個人主義になってきた社会、そこにコロナ感染症が追い討ちをかけたとみてよいだろう。老子製作所の再建を切に願っている。

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