武器や軍艦などを製造するため、梵鐘を含む金属が回収された
日中戦争下、国家総動員法のもとに、国内の物資は国家によって統制させられることになった。1940(昭和15)年9月、米国は屑鉄などの対日輸出禁止措置に踏み切る。この経済封鎖に、日本政府は焦り出す。武器や軍艦などを製造するための金属原料が手に入らなくなったからだ。そのため、国内にある金属製品が強制的に回収されることになった。
真珠湾攻撃が始まる4カ月前の1941(昭和16)年8月、金属類回収令が公布される。最初は、工場などでの金属回収が主であった。だが、そのうち一般家庭も対象になった。門扉をはじめ大工道具、ベーゴマなどが町内会を通じて回収された。だが、軍需を満たすほどには集まらなかった。
1942(昭和17)年5月、内務省や文部省、商工省は学校や宗教施設(寺院や神社、キリスト教の教会など)などの公共施設が保有する「不要不急の金属」を目当てにし、拠出させる通牒を出す。1943(昭和18)年には、商工省の中に金属回収本部が設置され、より徹底的に金属回収が進んでいく。
全国の学校では、たとえば二宮尊徳像がこの時、金属製から石像になっている。現在の二宮尊徳像の多くが銅像ではなく、石像なのは戦時下の金属回収のせいともいわれている。
たとえば東京都目黒区立田道小学校の校門のそばにある「二宮尊徳翁幼児之像」の台座には、「昭和十九年金属回収令に依り供出せし為石像にて再建す」と書かれている。
学校の初代校長や企業経営者の銅像、あるいは顕彰碑の類は9割以上が供出されたという。
渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」も回収された(現在は2代目)
有名なところでは、渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」が回収されている。同像は秋田犬のハチがまだ生きていた1934(昭和9)年に建てられているが、終戦前年の1944(昭和19)年に回収。再び作り直されたのは1948(昭和23)年のことだ。現在のハチの像は、2代目である。
また、野球場の鉄柵、不要普及の鉄道の線路、車両などが回収された。大阪のシンボルであり大阪人のアイデンティティでもある通天閣も、1943(昭和18)年に解体されている。現在の通天閣はハチ公像と同様、1956(昭和31)年に再建された2代目である。
金属回収によって台座だけが取り残され、戦後、その台座を使って現代アートや平和を象徴する裸婦像などが据えられたりしているケースも少なくない。
国からの通牒を受け、寺院や神社、教会などの宗教施設が保有する金属はことごとく、回収対象になった。こうして、寺院が保有する梵鐘や半鐘、鰐口、天水鉢、香炉などの金属製宗教用具が消えていったのである。
だが、寺院の中には歴史的、美術的価値を帯びている金属製品は少なくない。
例えば梵鐘でいえば、日本最古のものは京都・妙心寺蔵(国宝)のもので698(文武天皇2)年の鋳造である。現在、古梵鐘のうち14口が国宝、116口が重要文化財の指定を受けている。