J・S・バッハは、最も有名な音楽家の一人だ。日本では「音楽の父」と呼ばれるが、存命中は生活苦に悩んでいた。『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)を出した大阪大学名誉教授の猪木武徳さんは「バッハであっても年収は300万円ほど。いつの時代も芸術家が食べていけるかどうかは、その国の政治と経済のあり方を反映している」という――。

※本稿は、猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

給料だけでは生活費が賄えなかった

J・S・バッハの代表作『マタイ受難曲』が作曲されたのは、彼が40代の頃であるが、それまでの彼の経済生活はどのようにして支えられていたのだろうか。この偉大な作曲家は、プロテスタント教会の雇われ音楽家であったが、その給与で生活費がすべて賄われていたわけではなかった。

バッハ
Johann Sebastian Bach(出典=Wikimedia Commons

そもそもバッハがライプツィヒの聖トーマス教会のカントール(教会音楽の指導者)と音楽監督の職を得るのも簡単ではなかった。1722年に聖トーマス教会の音楽監督などを兼務していたヨハン・クーナウが62歳で亡くなると、ライプツィヒ市参事会で採用試験演奏が行われ、自由市ハンブルクの音楽監督であったゲオルク・フィリップ・テレマンが合格した。

しかしハンブルク側が数百ターラーの給与引き上げを申し出たため、テレマンは異動を思い止まり、ライプツィヒでの就職を断る。

紆余曲折の後、ライプツィヒ市はケーテンのカペルマイスターであったJ・S・バッハを採用する。記録によると、バッハに採用が決定するまでに3人の音楽家がテストを受けている。

すでに人気と名声の高かったテレマンに比べると、バッハはまだ中堅の作曲家とみなされていたらしく、一応採用が決まった後も(試用期間ということであったのか)バッハは厳しいオーディションをさらに受けた模様だ。この時、バッハは二つのカンタータ、『イエス十二弟子を召寄せて』(BWV22)と『汝まことの神にしてダヴィデの子』(BWV23)を演奏したとされる。

市参事会が採用に慎重であったことから見て、カントール職が政治的にも芸術的にもいかに重要なポストであるかが推察できる。