※本稿は、小倉孝保『十六歳のモーツァルト 天才作曲家・加藤旭が遺したもの』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
プロも涙した16歳の音色
加藤旭は脳腫瘍との闘病の末、16年5月に帰らぬ人となった。16歳だった。3歳で音符を並べはじめ、生涯にピアノ曲や交響曲など約500曲を残した。
Jポップの人気デュオ「moumoon」(ムームーン)のボーカル、YUKAが涙した音楽会は、彼が生きていれば20歳になるのに合わせて開かれた追悼公演だった。プロの音楽家や同級生が彼の曲を演奏し、会場には作曲家の池辺晋一郎や指揮者、小澤征爾の弟でエッセイストの幹雄ら生前、彼と交流のあった人々が姿を見せた。
音楽会の後、YUKAは彼の曲を集めたCDを繰り返し聴いた。特に気に入ったのが、「にじ」と題した短い曲だった。
「音楽会で演奏されたメロディでした。CDを聴きながら、この曲がすっごく好きだと気付かされたんです」
メンバーのMASAKI(マサキ)にもCDを聴いてもらい、2人は「にじ」を基に、自分たちの曲を作りたいと思った。旭の母、希にその気持ちを伝え、許可をもらっている。
MASAKIによると、曲を作るのに苦労はなかった。何かに導かれるようにできたと言う。詞を書いたのはYUKAである。
「旭君の『にじ』はミ、ソ、ド、レ、ミという5つの音がメインになっています。その音を耳にしているうちに、空に色が広がっている様子が見えたんです。ゆっくりと虹が描かれていく。みんなでその虹を眺めているような歌にできたらいいなと思いました」
「突然のことで死を消化できなかった」
小児がんの子を元気づけるチャリティーイベントで、2人が新作「にじ」を披露したのは20年2月。その直後、新型コロナウイルス感染が急拡大し、大規模イベントが相次いで中止になる。
「にじ」が初披露されたとき、栄光学園(神奈川県鎌倉市)で旭と一緒に学んだ同級生3人が楽器の伴奏をしている。リコーダーを担当したのは山田剛資だった。
旭と一緒に何度も鉄道旅行をした山田は、友人が若くして突然旅立ったことに戸惑い、どう理解していいか言葉にならない時間を過ごしてきた。リコーダー練習で「にじ」と向き合いながら、自分の精神に変化を感じたと山田は言う。
「彼との関係性が、よくわかっていないところがあって……。まだ若いし、あまりに突然だったでしょう。だからその死を消化できていなかった。彼の曲(を基にした曲)を繰り返し練習するうちに、自分の気持ちを固定化できた。曲を通して彼を思いだし、2人の関係性を曲に閉じ込めたような感覚でした」
『レ・ミゼラブル』で知られる19世紀の仏作家、ヴィクトル・ユーゴーは音楽について、こう語っている。
「音楽は言葉で言えず、しかも黙ってはいられない事柄を表現する」
YUKAに涙を流させ、山田の精神を変化させたのは、言葉を離れた旭のメッセージだった。