視力を失いながら書き上げた一曲

旭に興味を持った私は、希から資料を預かり、読み込んだ。彼は多くの日記や作文を残している。直筆の楽譜、闘病記録もあった。

最晩年、彼は自分の命が長くはないと気付いたのかもしれない。すでに視力を失いながら、細る腕をキーボードに伸ばして曲を作った。そうして出来上がった曲が「A ray of light(一筋の希望)」だった。重く、暗い音で始まりながらも途中、深い雲の間から鋭い日が差し込むがごとく、明るいイメージに転ずる曲である。

一筋の光
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完成したとき、旭はこう語っている。

「苦しんでいる人たちにとって最初は聴きづらいかもしれません。ただ、途中から希望が差し込みます。そうした人々にとって、この曲が一筋の光になればうれしいです」

自分が苦悶しながらも、彼は最後まで他者を思い遣る気持ちを忘れなかった。自分が遺せるものは何かと考えたとき、そこに音楽があった。彼が命の最終楽章を仕上げようとする姿は、同級生やその親、音楽関係者の心を揺さぶり続ける。

爽やかで、すがすがしい生き方だと思った。彼がそうした思想を持つに至った背景に、何があるのだろう。それを知るため私は、彼を指導した音楽家や教師、彼とともに学び、遊んだ栄光学園の同級生、そして家族から話を聴いてきた。

死の直前まで「何が遺せるか」を考え続け…

同級生たちは脳腫瘍になった旭を、病院や自宅に、何度も見舞っている。同学年全員で千羽鶴を折り、大合唱で励ました。自分でピアノ曲を作って旭に聴かせた者や、ウクレレを好む旭のためにこの楽器を習いはじめた同級生がいた。「男の友情」という手垢にまみれ、口にすることさえ気恥ずかしい言葉も、彼らの中では死語ではなかった。

旭は晩年、光を失い、立つこともできなくなる。それでも彼は、同級生のピアノやウクレレに応えようと、震える腕で1人、拍手の練習を繰り返した。彼は最後の最後まで生き抜き、自分は周りの支援にどう応えられるか、仲間や社会に何が遺せるかを考え続けた。

社会が余裕をなくしてしまったのだろうか。「自分第一」が恥ずかしげもなく語られる時代である。他者を優先するのは、お人好しのバカがする行為と捉とらえる風潮さえある。しかし、私たちは本来、他者について考えることで幸福を感じられる。それが人間性を高め、文明を育む原動力となってきた。旭と関係した人々の話を聴きながら、私は人間が本来持っている能力を確認できた。

インターネットが普及し、SNS(会員制交流サイト)全盛の時代である。新型コロナウイルスの感染拡大もあり、人と人との接触が減り、デジタル情報のやり取りが急増した。そんな時代だからこそ、旭と彼を取り巻く人々とのリアルな付き合い方は示唆に富む。