プロを裏切った旭の「不器用さ」

日本でも就学前から曲を書く子がいる。ただ、ほとんどの場合、大手音楽教室でトレーニングを受けている。三谷はそうした子の曲を数多く見てきた。

「そうしたところでは先生が細部まで指導します。もっと言うと先生が書いてしまう。子どものコンサートでは、『誰々先生が教えていた』ということも話題になります。教える側にすると、コンサートに教え子の曲を一つも出せないのは恥ずかしい。だから結局、先生が書いてしまう。私たちは楽譜を見ただけで、音楽教室で習った子の曲だとわかります」

旭が幼いころから作曲をしていると聞いたとき、三谷はそうしたケース、つまり音楽教室で習った通りに曲を作っているのだろうと考えていた。しかし、楽譜を見たとき、良い意味で裏切られたように思った。

「幼いころから曲を作る子はいくらでもいる。かなりよくできたとしても、それらしいなと思う程度でしかない。秋の風と言えば、それらしいな。夏の太陽と言われれば、確かによくできているなという感じです。旭君の場合、それとは違いました。不器用と言えば不器用。じっくりと読み込んでも、よくわからない曲がある。しかし、弾いているうちに面白くなるんです」

左から右に…ではなく縦に音符を置く

彼の曲の特徴は、その数の多さもさることながら、独創性にあった。音楽教室で曲作りを学んでいる子にありがちな、ある種のクセのようなものがなかった。常識外れの音の並べ方をすることが多かった。真っ白なカンバスに、好きなように筆を動かしているようなおおらかさがあった。

作り方も独特で、合奏曲も作るようになると、五線譜の上にパートごとに左から右へ旋律を書き入れるのではなく、縦に音符を置いていく。つまり上から、管楽器、弦楽器、その下に打楽器と楽器ごとに第一小節の音をまず書き入れ、それを終えると第二小節に移るという作り方をしていた。

そうした書き方をするということは、彼の頭の中で、音楽が楽器ごとに、はっきりと立体的に聞き分けられていた証だった。誰からも専門的な作曲法を学んでいないのに、合奏曲をも自然に作曲してしまうところに、彼の類いまれな才能が示されている。

私が旭の存在を知ったのは、その死から1年になろうとするころだった。当時、乳がんについて取材していた私は、ある医療者たちの会合で偶然、希と会った。この会合に出席した理由を互いに説明する中、私は旭が脳腫瘍で亡くなったことを知り、その後、医療者から、旭が多くの曲を作っていたと聞かされた。

彼の曲を集めたCDが2枚、市販されていた。私はそれを繰り返し聴いた。空や緑、水しぶきなど自然を描写した曲が多く、素直でのびのびとした感覚が伝わってきた。