クラシックの天才作曲家には、華やかな印象があるかもしれない。しかし、モーツァルトやベートーヴェンは存命中、“お金”に悩み続けていた。『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)を刊行した大阪大学名誉教授の猪木武徳さんは「ベートーヴェンはパトロンのひとりを『年金不払い』で訴えたこともあった」という――。

※本稿は、猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

貧困の中で亡くなったモーツァルト

芸術活動には資金が必要だ。ではその資金を誰から、どのような形で獲得していくのか。これは容易な問題ではない。歴史的に見るとバッハもモーツァルトも、ベートーヴェンも、パトロン(後援者)をどこに求めるかという問題に悩まされ続けている。

ザルツブルク国際モーツァルテウム財団所蔵の「モーツァルトの家族」より。(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
ザルツブルク国際モーツァルテウム財団所蔵の「モーツァルトの家族」より(部分)。(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

モーツァルトがザルツブルク大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーランスの作曲家として活動を開始してからの経済生活の惨めさはよく知られている。1787年にヨーゼフ2世が私的な宮廷楽師という低所得のポストをあたえたものの、彼の活動の多くは、個人的な得意先からの不定期の注文で支えられていた。

ただこの1787年という年は、芸術家モーツァルトの生涯にとってひとつの転機となった年でもあった。1月にはプラハへ旅立ち、『フィガロの結婚』(K492)を上演し好評を博した。そのため、国立劇場の支配人から次の新しいオペラ作曲を依頼され、同年秋に傑作『ドン・ジョヴァンニ』(K527)を初演している。

しかし芸術活動においては豊穣であったものの、経済状況は逆境のさなかにあったと言ってもよい。1787年年5月、病気がちであった父レオポルトが急逝する。妻のコンスタンツェの健康も芳しくない。家族の状況も経済状況も思わしくない中、モーツァルトは、教会からも宮廷からも疎んじられ、無視され続けた。

モーツァルトは、パトロンのいないまま、ウィーンでわれわれ音楽愛好家の宝となるような幾多の傑作を生み出している。そしてヨーゼフ2世の後を継いだレオポルト2世の戴冠式の翌年、1791年12月5日にこの世を去り、ウィーン市門外の聖マルクス墓地に墓標もないまま埋葬された。

パトロンを求めたベートーヴェン

一方、ベートーヴェンは当時ケルン大司教領であったボンに生まれ、カトリック社会の文化的風土の中で育っている。ボン時代のパトロンには、司教・選帝侯以外に、『ピアノ・ソナタ第21番(ハ長調)』(「ワルトシュタイン」、Op53)を献呈したフェルディナント・エルンスト・フォン・ワルトシュタイン伯爵もいた。

ハイドンの教えを受けたいと考えたベートーヴェンは、1792年秋にウィーンに居を移した。ウィーンに移る前の年に、モーツァルトが貧困のうちに亡くなったことが自分の将来の経済状態への不安を高め、安定した収入を保障してくれるパトロンを求める気持ちにつながったに違いない。