ウィーンでの本格的な作曲活動に入った時点で、最初に彼の熱心なパトロンとなったのはプロイセン領シュレージエンの大土地貴族(元はチェコ系)でモーツァルトを援助したこともあるリヒノフスキー侯爵であった。1806年に仲違いするまで、彼はベートーヴェンを援助し続けている。
この大作曲家の初期と中期の傑作の多くは彼に献呈されている。『ピアノ三重奏曲第1番』(Op1-1)、『第2番』(Op1-2)、『第3番』(Op1-3)、『ピアノ・ソナタ第8番』(「悲愴」、Op13)、『第12番』(「葬送」、Op26)、『交響曲第2番』(Op36)などが挙げられる。
「3貴族から5000万円調達」生活苦から逃れるために……
しかしベートーヴェンのウィーンでの経済生活は不安定で、苦しい状態が長く続いた。
生活苦から逃れようとして、ついに彼は誘いのあったカッセル宮廷への異動を考え始める。ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(あのナポレオンの弟)が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート)の年金の支給をオファーしてきたからだ。
ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職計画に驚き、それを思い止まらせたウィーン貴族が3人いた。ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、そしてキンスキー公である。取りまとめ役はルドルフ大公であった。彼らが拠出した年金総額は、残された契約書には3者合計で4000フローリンとある。現代日本の通貨価値にすると5000万円を下らないであろう。
ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンであった。ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲はいずれも大作だ。『ピアノ・ソナタ第二六番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、『ピアノ三重奏曲第七番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)など後期の傑作が多い。
パトロンの支えで生まれた名曲の数々
ベートーヴェン最晩年の大曲『ミサ・ソレムニス』は、ルドルフ大公がモラヴィアのオロモウツの大司教に就任したお祝いとして作曲されたが、あまりに熱を入れすぎて、就任式には間に合わず、結局その完成にさらに3年を費やすことになる。ルドルフ大公から受け取っていた年金は、先に触れた契約書では1500フローリンとある。
ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンであった。彼が契約書にサインしている額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲にも傑作が多い。
ベートーヴェン初期の6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲では、『第三番』(「英雄」、Op55)、『第五番』(「運命」、Op67)、『第六番』(「田園」、Op68)、中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、そして『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などである。