ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していたパトロンであった。エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はこのキンスキー公に献呈されている。

ベートーヴェンの『第九』楽譜の一部
ベートーヴェンの『第九』楽譜の一部(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

破産したパトロンを訴えたベートーヴェン

ただ、ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始める。ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いが不能となった。

キンスキーがプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減する。そうした不運が重なり、ベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」の廉で訴え、有利な判決を得ている。

猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)
猪木武徳『社会思想としてのクラシック音楽』(新潮選書)

これら3者と交わした契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、そして仕事あるいは芸術振興の目的で一定期間当該地を離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていた。

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、基本的に教会音楽への貢献を求めることのない、自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族であった。

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもあった。したがって、経済的・社会的上下関係としてはパトロンであったが、芸術分野での教育に関しては師弟関係にあった人物ということになる。

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