“実業の父”と呼ばれた渋沢栄一と三菱財閥を設立した岩崎弥太郎は生前、昵懇の仲だった。ところがある時期から激しく対立するようになる。歴史研究家の河合敦氏は「2人は『会社はだれのものか』という問いに対して、まったく違う考え方をもっていた。そのため海運業をめぐって、三菱と三井の対立が起きることになった」という――。(前編/全2回)

※本稿は、河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

衝突する二人の拳、背景には嵐の空
写真=iStock.com/RomoloTavani
※写真はイメージです

経営理念で衝突した渋沢栄一と岩崎弥太郎

明治12年(1879)に渋沢栄一が岩崎弥太郎の協力を得て東京海上保険会社を創設したことはすでに述べた。しかし栄一の回想によると、「明治12、3年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至った」(『世の大道』)と述べている。

そのきっかけは、弥太郎と栄一が大激論となったことだった。その日時については諸説あるが、私は明治13年8月のことではないかと考えている。あるとき弥太郎のほうから栄一のところに「船遊びの用意がしてあるので、お会いしたい」という連絡が入った。

しかし栄一はちょうど増田屋で遊んでおり、すぐに出向かずにいると、何度も弥太郎のほうから誘いの連絡が来る。仕方なく弥太郎のいる向島の柏屋へ行くと、弥太郎は芸者を十数人も呼んでいた。やがて隅田川に船を出し、網打ちなどをしながら弥太郎は「じつは話したいことがある。今後の実業はどうしていくべきだろうか」と問うたのである。

もちろん栄一は持論である合本主義を熱心に説いた。すると酔いが回っていたのか、弥太郎は「合本法は成立せぬ。もう少し専制主義で個人でやる必要がある」(『岩崎彌太郎傳 下巻』)と言い出したから、さあ、栄一も頭に血がのぼってきた。「合本のほうがよいに決まっている」と反論。すると弥太郎は「合本なんて駄目だ」と叫び、ついに大激論になり、とうとう栄一は芸者を全員引き連れて引き上げてしまったという。