政府の支援を得てリベンジを果たした渋沢栄一
明治14年(1881)12月、農商務卿の西郷従道は、いきなり弥太郎を呼び出し、第二命令書の改定を通告した。まだ交付から5年しか経っていない。有効期限は15年間のはず。
だから弥太郎は難色を示した。けれど西郷は「いわれなく、三菱を保護しているという世間の批判をかわすためだ」と述べ、翌年2月、「第三命令書」を交付したのだ。海運以外の事業に乗り出すことを厳しく禁じ、運賃規則や命令違反への罰則が盛り込まれたが、三菱側に大きな不利益はなく、弥太郎への脅しの意味が大きかったように思える。
だが、やがて政府は本気で三菱への対抗措置に動き出す。
明治15年(1882)3月に大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生したからである。政府は、反政府政党である改進党の運営資金が三菱から出ていると踏んだのだ。そこで反政府側の弥太郎に海運を牛耳らせるのはよくないと考え、同年5月、西郷従道農商務卿は、新たな汽船会社の創設を政府に上申した。
この会社は渋沢栄一、益田孝、小室信夫、藤井三吉、堀基、原田金之助など三井系や関西財界の大物が創立委員となって資本を募り、従前の汽船会社三社を合同させてつくったものだった。そう、栄一にとっては、2年前のリベンジであった。
栄一は、益田孝ら発起人とともに東京風帆船会社に北海道運輸会社と越中風帆船会社を合併させ、600万円という巨額な資本金をもとに共同運輸を立ち上げたのである。資本金のうち260万円を政府が拠出していることでわかるとおり、政府の息のかかった会社だった。
かくして同年10月、政府の許可を得て共同運輸会社が正式に発足、翌年1月より営業が開始された。
共同運輸会社の実態は日本海軍だった
この会社の実態は、ある意味日本海軍といってもよかった。
株式組織だが、同社に与えられた政府の命令書には、会社に付与された船舶は海軍の付属とし、戦時や有事のさいは海軍卿の命令で海軍商船隊に転じる規定があったからだ。また社長には伊東雋吉海軍少将、副社長には遠武秀行海軍大佐が就いている。
資金や組織面から見て明治政府が全面的にバックアップして三菱から海運業の主導権を取り戻そうとしていることが見て取れる。単に三菱をおさえるというより、潰してしまおうというもくろみがあったようだ。
というのは、明治16年(1883)3月、三菱社員の山本達雄がたまたま三菱の汽船に乗った西郷従道の話を耳にしており、それによれば、酔っ払った従道は甲板で政府の役人と「三菱会社の専横を毀り、この権力を殺がんがために、今般共同運輸会社を設立せし」と大声で話していたというのだ。
さて、この時期のことに関して栄一は自伝で次のように回想している。