三菱側のえげつない切り崩し工作
なお、小貫修一郎筆記『澁澤榮一自叙傳』(澁澤翁頌德會)という昭和12年(1937)に発行された書籍がある。渋沢栄一側の記述なので割り引いて考える必要があるが、それも読むと、三菱側の攻撃は非常に悪辣である。
たとえば、東京風帆船会社の株主の一人である富山県の伏木港の廻船問屋・能登屋の藤井能三のもとへ行き、伏木港の発展に尽くすことを条件に栄一の東京風帆船会社に今後は関係しないように誓約させ、あらたに越中風帆船会社を設置してしまったのである。
また新潟県の商人たちに対しては、「東京風帆船会社に参加せず、新たに新潟物産会社をつくったらよい。三菱から低利で20万円を融資する。それに、政府が御用米を買い入れるさいは、すべて新潟米にしてやる」と誘いをかけ、切り崩しに成功したという。
こうして栄一が企画した東京風帆船会社は、創業が認められたものの、ほとんど開店休業状態になってしまったという。弥太郎の巧みで徹底した攻撃の前に、栄一はもろくも敗れ去ったのである。
岩崎弥太郎が懇意にしていた大隈重信の失脚
明治11年(1878)に大久保利通が暗殺され、以後は長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信が政府内で大きな力を持つようになった。弥太郎が懇意にしていたのは大隈のほうだった。ところが明治14年(1881)の開拓使官有物払下げ事件を機に、大隈は失脚してしまう。
この事件は、開拓使(北海道開発のための官庁)の長官・黒田清隆が、開拓使廃止に伴い、この省庁に属する事業や施設を不当な廉価で同じ薩摩出身の政商・五代友厚らへ売却しようとしていることが発覚、自由民権家から激しい非難をあびたもの。
このとき伊藤博文は、民権派をあおっているのは大隈だと黒田に吹き込み、薩摩閥と手を結び、天皇臨席のもとで緊急会議を開き、大隈の参議職(政府高官)を罷免し、大隈に連なる官僚群を追放するクーデターを決行したのだ。世にいう明治14年の政変である。
黒田は、払い下げ計画を民権家にリークしたのが大隈と結んだ弥太郎の仕業だと確信していた。黒田が寺島宗則に送った書簡を紹介しよう。
黒田が書いているような奸計をめぐらしたかどうかはわからないが、弥太郎にその動機はなくはない。三菱は北海道に航路を開き、道内の産業にも積極的に進出しようとしていた。開拓使の官有物が五代らにすべて譲渡されてしまったら、三菱が進出できる余地がなくなる。