三菱の独占状態を打破しようとした渋沢栄一
一説にはこのとき弥太郎が栄一に対して、二人で組んで実業界を牛耳ろうという提案をしたというが、さすがにそれは考えられない。それにしても弥太郎は、何のために栄一をわざわざ招いて接待しようとしたのだろうか。
もしこれが明治13年(1880)8月のことならば、弥太郎は栄一が企画している海運会社の設立計画を中止させようとしたのだと思われる。じつは栄一はこの頃、三井物産の社長・益田孝らとはかって資本金30万円で東京風帆船会社を設立し、海軍大佐・遠武秀行を社長として海軍業への進出に乗り出していたのである。
三井物産は三菱に大量の物資を輸送させていたが、海運を独占するがゆえに運賃が非常に高く、値下げを交渉しても一切相手にされなかった。そこで益田は懇意にしている第一国立銀行の頭取である栄一に相談したのだ。周知のように栄一は、
「自分一身さえ栄達すれば、それが理想であるというような考えをも除かなくてはならぬ。如いか何んとなればかくのごとき思想は仁義道徳の教えから云うても、また人たるの本分から云うても、決して正鵠を得たる見解とすることは出来ぬからである」(『青淵百話・乾』)
という考えの持ち主であったから、三菱の独占状態を打破すべく喜んで協力することにしたのである。
政治とメディアの力を使って渋沢栄一の事業を潰した岩崎弥太郎
岩井良太郎著『三井・三菱物語』(千倉書房 昭和9年〈1934〉)には、その内情が次のように記されている。
「これを見て、流石の岩崎も驚いた。早速、石川、川田以下の幕僚を呼び集め、風帆会社揉み潰し運動に着手することになった。揉み潰しの手段としては、政府の大官に黄金をバラまいたり、御用新聞に風帆会社の悪口を書き立てさしたり、いろいろのことをやった。益田も渋沢も、この弥太郎の猛運動を見ては、内心恐れをなし、ついに風帆会社は、事業開始に至らず、消滅することになった。名前も変な会社だったが、結局、かけ声ばかりで風船玉みたいに萎んでしまったわけだ」
著者の岩井は、東京商科大学(現・一橋大学)を出て東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入り、その後雑誌『エコノミスト』の編集長などを務め、多くの経済に関する著書を出し、戦後は奈良県立短期大学(現・奈良県立大学)学長を務めた人物。まったくのデタラメは書かないだろうから、どうも弥太郎はえげつない攻撃を仕掛けて、栄一のもくろみを潰したようだ。