「言語」はすぐ役に立ち、ずっと役に立つ
教養やリベラルアーツについてこのような実践性を強調すると、慶應義塾塾長だった小泉信三の「すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる」という名言(迷言?)を持ち出して批判をする手合いが出てくる。
典型的には大学の文系の先生に多い。かつて文部科学省の会議で、「大学はもっと真剣に学生が世の中に出たあとに真に役に立つ実学を教えるべきだ」「シェイクスピアの英語原文を教える暇があったら実用英語を教えろ」「サムエルソン経済学よりもまずは簿記会計だろ」とやったら大炎上。「全大学人の敵」という名誉あるレッテルを頂戴した。
また、ある有名私大の先生からは会社に電話がかかってきて「お前のいっていることは言語道断だ。学術会議で問題にしてやる!」と、昨今、話題の日本学術会議を持ち出して恫喝された。
しかし、言語というものはすぐ役に立ちずっと役に立つものである。そうそうフルモデルチェンジするものではないのが言語だからだ。英語のような自然言語はもちろん、簿記会計についても、基本となる複式簿記の仕組みは数百年にわたり変わっていない。
「言語」の学習と実践による鍛錬の両方が必要
学んだことを道具として使える、つまり自分の思考や行動の基準となるところまで習得することは、その領域におけるプロフェッショナルスキルの根幹となる。
英語の習得において、リスニング力やスピーキング力、あるいは単語力などさまざまな能力が上がっていった結果として高い英語力を習得できるように、ビジネスや経営の世界においても、さまざまな能力を言語として身につけ、それをブラッシュアップしていくことでビジネスや経営の力が高まっていく。仕事とはそのプロセスでもあるのだ。
そして、その言語とは、いわゆる教養的なものとは限らない。例えば介護従事者が相手の要望を無言のうちにくみ取って、その人が望む介護を行う技術は、極めて高度なコミュニケーション技術であり、まさに言語そのものだ。知識と経験、そして想像力が問われるアート、知的技法でもある。
いい換えれば、真のリベラルアーツ、より良く生きていくための知的技法は、知的な学習作業と、実践による鍛錬とを行ったり来たりしないと習得できず、身体化された言語にはならない。よく欧米のインテリ経営者がすらすらと歴史の名言やエピソードを絶妙のタイミングで持ち出すことに感心する人がいるが、それは彼らが言語的レベルで名言や歴史的事実を習得し、日常的に思考過程で援用しているから。慌てて「1冊でわかる……」系の本を読んでも無意味、時間の無駄である。
介護現場がそうであるように、私たちがリベラルアーツを身につけるチャンスは、日々の仕事、日々の生活の中にいくらでもある。要は習得する姿勢の問題である。
言語である以上、やはりその習得は若いうちのほうがいいのは確かである。そしてここで大事なのが、「挫折力」だ。使ってみて、うまくいかなかったら「なぜうまくいかなかったのか」を考え、修正し、また使ってみる。挫折とリカバリーの連続の中で人間は言語を身につけていく。
失敗を恐れなければ、恥をかくことをいとわなければ、何歳になっても「言語」を習得することは可能なはずだ。