自己保身で問題を先送り

このことは、個人と個人の関係でも同じだ。悪い情報、耳の痛いことを、本当に大事な局面で伝えてくれる友こそが、本当の友である。一緒に仕事をしていて信ずるべきはそういう仲間である。

結局、悪い話を伝えられない真の理由は、相手への思いやりでも気遣いでもない。伝えたときの反発、混乱、それに対応することの面倒くささ、そして何よりもそのせいで自分の立場がただちに危なくなることへの恐怖である。要は当座の自己保身が、悪いニュースを伝えない本当の理由なのだ。

しかし、そうやってごまかしていてもしょせんは問題の先送りに過ぎない。結局、将来、より大きな悲劇に、社員も、友人も、そしてあなた自身も見舞われることになる。私自身、そうやって身を滅ぼすリーダーやサラリーマンを何人も見てきた。

ノートパソコンの画面を見る中年ビジネスマン
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ここはテクニックうんぬんではなく、いうべきことは、手遅れになる前に正直に伝えてしまうということに尽きる。もちろん反論されたり、抵抗されたりすることはあるだろう。

だがそれを乗り越えないことには、どんな改革も前には進まないし、本当の信頼関係や友情も築き上げることはできない。

反対に、リーダーにとって本当に大事な“悪いニュース”は、いつも遅れて、しかも小さめな話としてしか、下から上がってこないことも肝に銘ずるべきだ。部下にとってみれば、自分に不利な情報、自己保身にマイナスな情報を、自分を評価する立場にある上司に上げたくないのは、当たり前である。

長期不況は、真実から目を背け続けた結果

リーダーたるもの、「教養」を身につけよということをよくいわれる。巷には『1冊でわかる教養』といった書籍もあふれている。では、そもそも教養とは何なのか。

教養とは「リベラルアーツ」の和訳である。そう、「アーツ」、つまり「技術」「技能」なのだ。知っているだけではなく、使えなくては意味がない。教養とは単なる「うんちく知識」とは違う。

例えば、シェイクスピアは読むべき古典だが、単に作品名とあらすじを知っているだけでは意味がない。シェイクスピアの作品には、今にも通じる普遍的な人間の葛藤が描かれており、また、当時の時代背景を前提とした価値観の衝突が描かれている。これは現在でもそこかしこで起きていることである。今、目の前で起きていることに対し「これはシェイクスピアのあの作品におけるイングランド王の状況と同じだ」と認識し、それを自らの的確な対応に結びつけられるか。それが重要なのだ。

あるいはマックス・ウェーバーを読むにあたって、そこに何が書かれているかを知ることも、実はあまり重要ではない。むしろ、卓越した洞察に到達した彼の思考体系を知ることこそが重要だ。一例を挙げれば、ウェーバーの思考体系の特徴の一つは、価値選択の問題と事実認識の問題を峻別すべきだということにある。人はある事実を見るにあたって、自分の中の価値判断のメガネを通してそれを見てしまいがちだ。簡単にいえば、自分の都合のいいように物事を解釈する。そんな価値判断のメガネを外し、社会で起こっている事実をありのままに見ることが重要であり、それが科学だということが、ウェーバーの思考体系を貫く軸となっている。

もちろん、本当の意味で人間が完全に価値と事実を峻別できるかどうかは議論の分かれるところだが、この考え方は経営者としてのものの見方、考え方においても十分に有効性を発揮する。日本の「失われた30年」も、時代が変わってしまったという事実を見ようとせず、都合のいいように事実を解釈したからこそ起こったことともいえる。