フィギュアスケート選手の宮原知子さんは2017年1月に左股関節を疲労骨折した。翌年の平昌冬季五輪出場が危ぶまれたが、見事復帰し出場を果たした。当時の気持ちをイーオンの三宅義和社長が聞いた——。(第2回/全3回)
フィギュアスケート選手の宮原知子氏
写真=Getty Images
2019年の第88回全日本フィギュアスケート選手権での宮原知子さん

たった30分でスケートに目覚めた

【三宅義和(イーオン社長)】宮原さんのフィギュアスケートとの出会いについて教えてください。

【宮原知子(フィギュアスケート選手)】4歳のときです。当時、両親の仕事の関係でアメリカのテキサス州ヒューストンに住んでいたのですが、ショッピングモールにあったアイススケートリンクで初めてスケートをやってみたんです。

最初の30分くらいは両親の手を持ちながら滑っていたのですが、そのあとは自分で滑れるようになって、氷の上を滑走する楽しさが印象に残り、それから「また行きたい!」と言うようになりました。

【三宅】たったの30分ですか! きっと天賦の才能があったんでしょうね。ご両親はなにかスポーツをされていたんですか?

【宮原】本格的なものはとくにしていません。アスリート一家というわけではないんです。

【三宅】いまのお話を聞いて、勇気をもらえる人は多いと思います。

小学3年生のとき、選手になることを決意する

【三宅】その後はどんどんスケートにハマっていかれたわけですね。

【宮原】はい。最初のうちは初めて滑ったリンクで行われていたスケート教室に通いだして、私が「もっとやりたい」というので頻度も増えていって、日本に帰ってからは本格的にコーチについて指導を受けることになりました。

【三宅】最初のうちは、どちらかというと遊びの延長の感覚だったと思うのですが、日本で本格的にコーチから指導を受けることになって、厳しさのギャップみたいなものは感じましたか?

【宮原】いま思うと、厳しさの変化はあったと思いますが、当時はあまり意識していませんでした。指導がどうこうというより、私の中でスケート熱がどんどん高まっていくのに合わせて、しっかりと環境を用意してくれた両親に感謝しています。

【三宅】フィギュアスケート選手としてトップを目指そうと本格的に思われたのはいつですか?

【宮原】小学3年生のときに初めて国際試合に出たのがきっかけです。世界中から集まってきた上手な選手たちに囲まれて、「私ももっと頑張ろう」と思いました。