現役時代は「ダブルスの女王」として名を馳せた元プロテニスプレイヤーの杉山愛さん。どんな基準でパートナーを選んできたのか。イーオンの三宅義和社長が聞いた——。(第2回/全3回)
元プロテニスプレイヤーの杉山愛氏
撮影=原貴彦
元プロテニスプレイヤーの杉山愛氏

錦織圭の登場により世界で勝てる日本の若手が増えた理由

【三宅義和(イーオン社長)】大坂なおみ選手という世界的スーパースターを筆頭に、最近の日本テニス界は若い選手が国際舞台で躍進していますね。現状をどうみていらっしゃいますか?

【杉山愛(元プロテニス選手)】男子についていえば、本当に良い循環が起きていると思います。錦織圭君(ATPランキング41位。2020/11/16現在。以下同)が出てくるまでは日本人の男子選手がトップ100に入ることは奇跡のような扱いで、松岡修造さんくらいしかいなかったわけですけど、圭君がデ杯(デビス・カップ)などに出るようになって西岡良仁君(56位)や内山靖崇君(102位)、杉田祐一君(100位)など、若い選手たちが本当に良い影響を受けています。

【三宅】引っ張られる感じなんですか?

【杉山】自分のなかの「当たり前」の基準が上がるんですね。「この人が行けるなら自分も行ける」「トップ100はゴールではなく、トップ100で戦うのが当たり前だ」みたいな感じです。私の現役時代、女子のトップ100のなかに日本人が10人くらいいたんですけど、当時の私の感覚も「私と同じような体格の伊達(公子)さんがあそこまで行けるなら、自分もきっと行ける」と思っていたんですね。

【三宅】日本人のサッカー選手がどんどん海外に行く状況と似ている気がします。

【杉山】似ていると思います。

成長のプロセスが実感できると楽しい

【三宅】テニスは4歳からはじめられたそうですね。

【杉山】はい。両親が趣味でやっていて、週末になるとテニスクラブに行っていたもので、「家族でテニスできれば良いね」というノリではじめたのがスタートです。当時は子ども用のラケットがなかったので、重たい大人用のラケットを引きずりながらやっていました。それ以外にもいろいろ習い事はしていましたけど、最終的にはテニスにのめり込んで、小学校2年生からはテニス一本。学校が終わってから3、4時間の練習を週4、5回するというテニス漬けの毎日でした。

【三宅】何かきっかけはあったのですか?

【杉山】プロテニス選手の養成で有名な、ニック・ボロテリー・テニスアカデミー(現IMGアカデミー)の日本校が、たまたま家から車で15分ぐらいのところに開校して入会が許されたんです。

【三宅】なるほど。本格志向だったわけですね。

【杉山】はい。その頃から「海外で活躍するプロテニスプレーヤーになりたい」という夢を持つようになっていて、スクールを掛け持ちしたり、自主的に練習をはじめたりするようになっていたんですけど、新しいテニスクラブに入ってみたら、仲間たちもみんなプロを目指している子供たちだったので、とても刺激になりましたね。

【三宅】環境は大事ですよね。では練習はあまり苦にならず?

【杉山】むしろ楽しかったですね。上は高校生のお姉さん、お兄さんがいるような中で、私が一番年下くらいで、みんなからかわいがってもらえたことも大きかったですし、自分がだんだん上手になっていく手応えを感じられたことも楽しかったですね。最初はスイートスポットの打球感が気持ち良いというところから始まって、そのうち打てなかったショットが打てるようになったり、友達とラリーが続くようになったり。どんなことにも言えますが、成長のプロセスが実感できると楽しいですよね。