こう書くと、不要なものを売りつけているように勘違いしてしまうかもしれないが、リンゴを買ったお客さんたちは、「お隣さんに分けよう」「おいしいリンゴだから、ジャムにしよう」などなど自らリンゴの行き先を口にする。「今日はいい日だな」と呟いた若者のように、最終的には、「いいものを買った」と笑顔で立ち去るのだ。
片山さんは、「リンゴの売り方があるんじゃなくて、今までどういうふうに生きてきたかが問われる」という。
「なにかの壁にぶち当たった時の突破方法ですね。僕はあの時にこうしたとか、それぞれのバックグラウンドがあるじゃないですか。一度、素になって、そこに立ち返ることができると、突然、売れ出すんですよ。逆に、自分に違和感があると、ぜんぜんお客さんを呼べません。店に残るのは、素になれた人だけですね」
今回の取材で片山さんのサポートに入ってくれたマキさんは小柄で物静かな雰囲気で、片山さんとまったく印象が異なる。「私、人見知りなんです」と語る彼女が、1日に平均10万円を売り上げると聞いて、仰天した。1日4万円、10日で40万円を稼ぐ敏腕の売り子なのだ。
盲目のピアニストとの出会い
世田谷店にはマキさんのような精鋭がそろっており、リンゴの売り上げはもはや盤石。月商1000万円が見えたところで、これまで通りなら、また新たな店を開くところだが、店の展開は3店舗までと決めていた。さて、どうしようかと考えていた矢先の2020年の春、新型コロナウイルスが日本でも猛威を振るい始めた。
コロナ禍で行商しづらくなったため、ムカイ林檎店でもお客さんからの注文を受けるやり方にシフトし始めた。その時に、大きな転機となる出会いがあった。
店の近所に配達に行った時のこと。玄関先でいつものように少し言葉を交わしたら、そのお客さんが語り始めた。あるピアニストのファンクラブを統括する仕事をしていること、コロナでコンサートやレッスンがすべて中止になり、そのピアニストが収入を絶たれて困窮していること。
そのピアニストは、片山さんが何度も演奏を聞きに行ったことがある全盲のピアニスト、梯剛之さんだった。片山さんはほぼ無意識のうちに、「CDの在庫ないですか? あれば全部行商で売ってきますよ」と言っていた。
数日後、そのお客さんの紹介で梯さんに会って、コロナ下の苦境にあってもユーモアを失わないタフな人柄に感嘆した片山さんは、5種類のCD、45枚を無償で行商することに。世田谷店の仲間に話をすると、数名が手伝いたいと名乗りを上げてくれた。
当日は、軽バンにCDを載せて出発。CDを試聴できるようにしただけで、あとはいつもと変わらない。道行く人に「CDいりませんか?」と話しかけ、足を止めてくれた人たちに、梯さんの話をした。その日、8時間で38人のお客さんにすべてのCDを売った。後日、売り上げの11万2500円を梯さんに届けたという。