筒美京平は、新しい才能が出てきても臆することなく、その才能を生かせる柔軟な音楽性を持ち合わせています。先に挙げた曲の作詞を見ていくと、『ブルー・ライト・ヨコハマ』は橋本淳、『ロマンス』は阿久悠、『スニーカーぶる〜す』は松本隆というベテランたち。この3人に続いて、80年代は秋元康という若者と手を組みました。

ビジネスシーンでは若い方がいろいろ出てきますが、筒美京平は新しい才能をどんどん歓迎していきます。10歳以上若い秋元康を歓迎するのは、ベテランとしてなかなかできることではありません。おニャン子クラブのプロデュースをするなど、秋元康はある意味、胡散臭さの象徴みたいな感じでしたが(笑)、でも、筒美京平にとっては、そんなの関係ない。彼は作曲職人。ヒット曲さえ作れればいいんです。

ドン底の日本にオザケン・蘭々の声

90年代に入ると、筒美京平は第一線から退きます。しかしながら、当時流行していた「渋谷系」といわれる音楽ムーブメントから、「筒美京平がすごい」というリスペクトブームが起きます。

渋谷系サウンドの代表格である小沢健二と組んでヒットさせたのが『強い気持ち・強い愛』(95年)。これは小沢健二の声を気に入ったという筒美京平から、小沢健二に話を持ちかけたそうです。筒美京平はファニーボイスが好きで、郷ひろみや平山三紀や松本伊代など、個性的な声を持つさまざまな歌手と組んでいます。そして小沢健二もファニーボイスの持ち主。さらに筒美京平をリスペクトする歌手でもありました。こうして作詞小沢健二、作曲筒美京平がタッグを組んだヒット曲が生まれたのです。

この時代になると、すでに筒美京平は音楽シーンの最前線にはいません。しかし、曲のあちこちに筒美メロディと言いましょうか、70年代の筒美京平が持っていたハイカラなサウンドを、90年代に再現するリミックスが見られます。

95年という年は、バブルが崩壊直後の景気が冷え込んでいる時代。さらに阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起こったというどん底の時代です。日本中が暗い気持ちになっているときに、このポジティブなポップソングが街に鳴り響き、人気を博しました。小沢サウンドと筒美サウンドがうまく融合していると言えます。

小沢健二も、先ほどの秋元康と同じで、年代的には20歳以上離れています。そんな若手のミュージシャンに純粋に興味を持ち、筒美京平は自分からビジネスを持ちかけた。この好奇心は、ビジネスマンにとっては学ぶべきところがありますね。