1542~1616年。三河国(現・愛知県西部)に生まれる。幼少時は人質生活を送るなどの不遇も経験。豊臣秀吉死後の天下を巡る関ヶ原の合戦で石田三成をやぶり、1603年に江戸幕府を開く。1616年没。
ワシはもはや月見草ではない
2009年、開幕ダッシュに成功した東北楽天イーグルス・野村克也監督の言動をマスコミは連日大きく報道している。
最近、徳川家康と私のやっていることに共通点があると指摘される機会が多くなった。何ページにもわたって徳川家康と私の共通点を詳細にレポートしてくれる人まで現れた。ひょっとして、みんな私のことを「タヌキ」といいたいんじゃないのかなァ(笑)。
これだけファンも応援してくれるようになっている昨今、私はもはや「月見草」ではないのかもしれない。
ファンの目には、「老獪な策士」といった印象のある野村監督と、権謀術数の限りを尽くした徳川家康像が重なるのだろう。「老獪な策士」が顔を出すのはどんな場面だろうか。
通常、ランナーが三塁にいてどうしても点が欲しいとき、スクイズのサインを出す。ランナーがスタートして、打者がバントをするのです。ところが、ランナーがスタートしてもあえてバントをせずにヒッティングに出る。成功する確率は低いが、ボテボテの内野ゴロで一点が入る。一度打ちとったと安堵する分、相手に与えるショックは大きい。
さらに、足の速いランナーが塁に出て、絶対になにかをしかけそうな状況で、「なにかするぞ、するぞ」と見せて、なにも動かない。ウロウロしていろというサインを出す。相手のバッテリーはこっちの作戦を窺うつもりで牽制球を投げるが、こっちの意図がわからない。最後には混乱して、勝手にカウントを悪くする。
三方ヶ原の戦いで家康は武田信玄に負け、城に逃げ帰った。そのとき、家康は城門を開け放ち、さもなにかワナがあるかのように見せたため、武田軍はなす術もなく、城に攻め入ることをためらった。
ヤクルトの黄金時代、巨人のエース級のピッチャーが、バッターとではなく、ヤクルトベンチと戦っている気がしたとコメントしていた通り、どんな策が隠されているのかと翻弄されたのだ。
弱者が強者に勝つ、ということをここまで体現している人はいない。
過去には、弱小チームだった南海、ヤクルト、阪神の監督として、チームに大きな変革をもたらした。日本シリーズで日本一に輝くこと3回、リーグ優勝はセ・パ両リーグを通じて5回。歴代最高齢監督(73歳)として楽天を率いている。
私が監督を引き受けたチームはすべて、Bクラスだった。私は、貧乏くじばかり引かされ、いつもどん底からのスタートになる。
どんな組織の場合でも同じでしょうが、チームづくりで一番大切なことは、チームの中心となる選手をつくること。
たとえば、阪神の金本(知憲)。彼は実力が超一流であるだけでなく、己に厳しく、練習を怠らない。弛んだ後輩選手を見つければ、叱りつける。そんな人物がいれば、監督は「あいつを見習え」の一言ですむ。まさにチームの「鑑」だ。
残念ながら、そんな選手が楽天にはまだいない。岩隈(久志)は確かに素晴らしい投手だが、エースとしての自覚が足りない面がある。マー君(田中将大)をはじめ、各投手が岩隈の姿を見ているのだから、大きな影響を受けている。「鑑」となるエースがいれば、自然と楽天は投手王国になる。