真田幸村(さなだ・ゆきむら)
1567~1615年。戦国時代の武将・真田信繁の通称。父の昌幸は武田家に仕え、武田家が滅びると独立。上田城に本拠を置く。関ヶ原の戦いでは、父とともに西軍側につく。大坂冬の陣・夏の陣に参加し、家康をあと一歩まで追いつめた。
心を奮い立たせる三カ条
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心を奮い立たせる三カ条

いまわれわれは真田幸村に何を学ぶべきか。現代風に言えば「選択と集中」こそ最も学ぶべきものだ。「選択と集中」は弱者の戦いである。圧倒的な劣勢のなかで、幸村は徳川方の最大の弱点を的確に捉え、それを衝くことに集中した。

和議が決裂し再び始まった戦闘。その「夏の陣」でも家康は必ず出陣する……、幸村はそう読んでいた。なぜなら、大軍勢を誇る徳川軍とはいえ、それは大御所・家康がいてこそまとまる組織。将軍の座には二代目の秀忠を据えたものの求心力に乏しく、72歳の家康みずから老体を押して出陣する必要があった。

幸村は、そのことこそ徳川軍最大の弱点だと見抜いていた。家康さえ倒せば戦局はどう動くかわからない。幸村はそこに集中した。

その目的達成のために幸村は緻密な計算を怠らなかった。一つは優れた情報網の構築。情報網を駆使して家康の居場所をキャッチする。身の安全を図り、次々に陣を移す家康。徳川軍にとってさえ最高機密である大御所の現在地を、正確に把握していた。だからこそ後世、猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」と呼ばれる忍者たちの伝説も生まれたのである。

さらに、幸村は家康の本陣に最後の突撃を敢行したとき、2人の影武者を用意している。自分自身が斬り倒されることなく敵陣の最深部まで到達するための策だ。最初に述べた「冬の陣」での活躍の際も、種々の奇襲を仕掛けている。このように、幸村が戦闘において常にイノベーションを図っていたことも、注目し、学ぶべき点だと言えるだろう。

将としての統率力にも優れていた。部下たちはリーダー幸村の才能と生き方を信頼し、落伍者なしで戦い抜いている。

大坂城の落城とともに戦国武将の時代は終わった。武と勇気と知略を備えた本当の武士は消え、以後、武士も完全にサラリーマン化、官僚化していく。

だからこそ人々は「最後の戦国武将」として、幸村に心を寄せるのだろう。

(構成=小山唯史)