石を投げられる、公安につけられる、薄給……苦難に満ちた中国生活

目指す方向が定まってからは、勉強に没頭する日々を送る。

「政治色の強い学校で、中国人、ロシア人などに囲まれ3年半勉強し、卒業後は、ジャーナリストになるべく毎日新聞の北京支局でバイトを始めました。この頃は中国ブームが起こる前で、しかも天安門事件(1989年)の3年後。北京に留学している人なんてよほどの変わり者か研究者か外務省職員くらいでした」

「ちょっと違う景色を見てみたい」と寄り道した中国での生活。蓋を開けてみると、想像以上に過酷だった。

写真=iStock.com/leochen66
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「当時の中国は生活水準が著しく低く、水道からお湯が出る時間が決められていたので、それを逃すと体を洗うことすらできない。洗濯機も留学生7~8人と一台を購入してシェアしていました。当時の中国は、外国人は全て監視対象。新聞社でのバイトの帰りは公安が必ずついてくる。まだ反日感情も残っていたので、石を投げられることもあった。でも、ここで『負けてたまるか』の反骨心が再びムクムクとわき上がった」一転、アメリカのスタンフォード大学院を目指し、全額奨学金の枠を勝ち取った。

スタンフォードを卒業後に働いたが年収200万円台の極貧生活

米国最難関のひとつ、スタンフォード大学ではコミュニケーション学部ジャーナリズム学科で26歳まで学ぶ。卒業後は、満を持してジャーナリストになるべく、香港の『ウォールストリートジャーナル』でのインターンを経て、同地のローカルビジネス雑誌の記者として就職。一年間下積みをする。

「念願の記者になったものの、実態は日本円で年収にして200万円台の極貧生活。香港島の端にあるボロアパートに住まざるを得ませんでした。セキュリティ面も不安の多いアパートで、酔っぱらいや喧嘩の声に夜な夜なおびえ、身の危険を感じながら床に就く生活。『このままここで一生貧乏生活を送るのかな……』と悲観的になった時期もありました。でも、しばらくして一念発起するんですね。中学時代のように、『ここから抜け出したい!』との思いで、20社ほどのメディアに履歴書を送りまくりました」

しかし、当時27歳になっていたので、年齢制限に引っかかり、日本のメディアからはすべて門前払い。

「でも捨てる神あれば拾う神ありで、履歴書を送った1年後に、ロイター通信社の東京支局から採用の電話があったんです。苦節26年、ここでようやく希望の光が見えました」

これが人生2年目の転機となったという。1回目は高校受験、2回目はなりふり構わぬ転職活動で、逆境から抜け出したのだ。高校や大学時代に悶々と過ごしていた時期も、海外留学などで自ら環境を変えていった林原さん。ダメだと思ったらすぐ方向転換し、「はみ出し、寄り道」を恐れない。この行動力は、逆境から抜け出す成功体験を重ねていくことで身についていったといえよう。

ところが、ここで苦難が終わったわけではなかった。「人生は思い通りに行かないことの連続」。こう痛感する事件がこの後、10数年にわたり繰り返し降りかかってくるのである。(後編に続く)

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