しかし、習近平政権にとって最大の問題だったのが、金正男氏自身に「権力者になりたい」という意志がなかったことだ。そのため、習政権はどこかの段階で正男氏を「役立たず」と判断。北朝鮮に恩を売れる日が来るその日まで、一応は「飼い殺し」にして手元に置いておく道を選んだのだろう。

その後2016年から2017年にかけて、国連や米国の厳しい制裁により、金正恩政権は苦しい状況に陥った。今こそ「救いの手」を差し伸べて恩を売り、みずからの影響力をさらに行使するチャンスだと踏んだ習近平政権は、満を持して金正男氏の警護チームを外して隙を作らせ、金正恩氏に殺させた可能性もあるわけだ。

こうして書くと、実の兄に手をかけた金正恩氏に負けず劣らず冷酷な、習近平政権の姿が浮かび上がって来る。その背景として留意すべきなのが、中国国内における習近平と、江沢民元国家主席率いる上海閥との、長年にわたる激しい権力闘争である。

北朝鮮の「後見人」としての上海閥

上海閥は、北京に人脈を持たなかった江沢民氏が1989年に中国共産党総書記に選ばれた当初、みずからの体制強化のために、上海勤務時代の子飼いの部下を抜擢することで形成した親衛隊である。そして金正男氏はかつて、江沢民氏の長男である江綿恒氏との親交を通じ、上海閥と緊密な関係を築いたと言われている。

一方で上海閥は、中露国境の警備や朝鮮半島有事などに備えている、中国人民解放軍の瀋陽軍区とも深い関係にあった。つまり、数十万の総兵力と最新鋭の装備を有する瀋陽軍区は、習近平政権に対しては極めて敵対的であった(現在は統合されて「北部戦区」と呼ばれているが、本稿では便宜上「旧瀋陽軍区」と呼称する)。

まさに昔の馬賊・軍閥のごとき状態であるが、旧瀋陽軍区の根拠地は今日もなお多くの朝鮮族が生活している中国東北部(旧満州)であり、朝鮮戦争時に米韓軍と交戦した中国義勇兵の多くも、この地域の朝鮮族であった。そのことから、旧瀋陽軍区は北朝鮮軍と「血の友誼」と呼ばれる非常に緊密な関係を持っている。

近年の北朝鮮へのさまざまな物資の秘密支援は、この旧瀋陽軍区が関与しているとも見られている。中国軍で使用されていた日本製高級乗用車が、遼寧省丹東を経由して北朝鮮に密輸されているとか、核開発関連物資までが密輸されていたケースもあるなど、両者の結びつきはかなり強固なようだ。このことから、実は北朝鮮に核ミサイルを持たせようとしているのは、いざという時に北京の習近平政権を威嚇したいと考えているこの旧瀋陽軍区(=江沢民率いる上海閥)ではないか、と見る専門家もいる。