共産党軍を利したアメリカの「寛容さ・公正さ」
しかし、アメリカは国共内戦に積極介入しようとはしませんでした。アメリカは「国民党を中心に、共産党と連立した民主主義的政権をつくることが望ましい」と考えていました(*1)。
当時のトルーマン政権はこうした視点から、国民党と共産党との調停に奔走する一方で、軍事介入は火に油を注ぐとして、最初から選択肢の中に入れていませんでした。中国駐留のアメリカ軍総司令官は、中国共産党軍に対し軍事攻撃をすることは「侵略的行為」に当たり、「アメリカ軍はそのようなことはしない」と言い放ちました。
アメリカのこうした「寛容さ・公正さ」の裏をかいて、共産党は交渉に応じるフリをしながら、各地で軍事攻勢を強め、日に日に国民党軍を追い詰めていました。この時、共産党軍の陣頭指揮をとって活躍したのがトウ小平(トウは登におおざと)らでした。アメリカの「寛容さ・公正さ」は共産党の時間稼ぎ戦術に利用されていたのです。
アメリカが表明した「共産党との対立を避けながら、国民党を支援する」という方針は「何もしない」ということと同義であり、共産党を勢いづかせます。実際にアメリカは10万の軍を中国に派遣しながらも、それを動かすことはありませんでした。
スターリンの出方を読み誤った
アメリカが中国共産党に対して、ここまで弱腰であった理由は、ソ連が既に共産党を積極支援しており、共産党とことを構えることになれば、ソ連と直接衝突する恐れがあるという不安を抱いていたからでした。
しかしこれは、当時のアメリカのソ連への諜報(ちょうほう)活動が十分でなく、アメリカがソ連の内情を正確に把握していなかったことから生ずる杞憂(きゆう)でした。直接衝突を恐れていたのは、むしろソ連の方だったのです。スターリンはアメリカとの衝突を避けるために、アジアでのプレゼンスをできるだけ希薄にし、東ヨーロッパへの介入に注力していました(*2)。
ソ連がアジアに介入する余裕をもてないでいる当時の状況は、アメリカが中国に対して強気に出ることができる好機でした。しかし、アメリカは自ら、それを逸したのです。
少し前、対北朝鮮政策をめぐってトランプ政権内部の意見対立が話題になったのと同じように、当時のトルーマン政権の中でも、強硬派と穏健派で意見が割れていました。トルーマンは強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官を退け、穏健派のジョージ・マーシャル(1947年、国務長官)を中国特命大使に任命し、同じく穏健派のディーン・アチソン(1949年、国務長官)を国務次官にして、調停実務の計画立案を担当させました。マーシャルは国民党と共産党との調停に奔走し、中国人から「平和の使徒」ともてはやされました。