関東大震災のとき、総理大臣は交代中、内閣は不在だった!2011年3月11日、日本を襲った100年で3度目の大震災。先の震災に学ぶ東日本の復興復旧の術とは何か。
大震災から2カ月が過ぎ(※雑誌掲載当時)、大危機発生直後の当面の危機対策という第一ステップの時期から、最短でも数カ月を要する復興・日本再生の対策を打ち出して実行する第2段階を迎える。
菅は4月25日、「大危機という事態に責任を自ら放棄するのはありえない選択」と国会で答弁し、政権維持への執念を隠さない。世論の動向を見ても、ただちに首相交代を求める空気は乏しい。自民党や民主党の反菅派は退陣を叫ぶが、決定打に欠ける。
だが、相手の手詰まりに乗じて延命を策しても、菅に「危機のリーダー」としての条件と資質がなければ、早晩、国民から退陣要求が噴出し、首相の座を追われるのは必定だ。「危機のリーダー」には何が必要か。
村山は、仕事は任せ、責任はすべて負うという姿勢で高評価を得た。大危機発生直後は行政の役割が大きい。政官業に幅広い人的ネットワークを誇る自民党と、豊富な行政経験とノウハウの蓄積を持つ官僚機構に全面的に依存するのが社会党首相のベストの選択だったのは疑いない。だが、見方を変えれば、自民党と官僚機構への丸投げである。村山のもう一つの顔は、自民党の官僚機構の掌(てのひら)に乗った「名ばかりの首相」だったのも疑いない。
結果責任は首相が一人で担うという姿勢は、剛腹さと高潔さを備えた村山の人間性とも取れる。だが、「なりたくてなったわけではない。いつ辞めてもいい」が口癖だった村山の希薄な権力欲の表れといえなくもない。
国民生活や国益よりも自身の政権欲を優先させる政治家は、もちろん首相失格だが、健全な権力欲は政治リーダーに必要なエネルギー源である。菅は政権への強い執着心を隠さないが、それは批判されることではない。問題は政権維持のエネルギーを何に使い、どんな社会や国家、世界を目指すのか、その構想力と実現力である。
88年前、関東大震災発生時、蔵相に就任した井上は第一声で「モラトリアムを実施する」と宣言した。債権者のいっせい手形取り立てや預金者の取り付け騒ぎなどの混乱を防ぐため、国家が一定期間、全債務の支払い、預金引き出しを猶予する措置だが、史上初めての出来事だった。
一週間後に緊急勅令で支払猶予令が公布される。首都圏の経済活動は約1カ月、全面麻痺し、金融システムは機能不全となったが、金融界はモラトリアムで急場をしのいだ。ただし、震災前に銀行が割り引いていた手形の決済の問題が、震災手形と呼ばれて長く尾を引き、昭和初年の金融恐慌の原因となる。だが、この場面では新任蔵相の井上の水際立った手腕が光った。
一方、東京の復興を担ったのが「大風呂敷」の異名を取った後藤だ。東京市長時代に近代都市への大改造プランを構想したが、実行できなかった。
後藤は震災の直後、内相に就任すると、すぐに「遷都不可」「復興費30億円」を打ち出した。被災地を買い上げ、広大な道路の建設や区画整理など欧米流の都市計画による新都の造営を目指した。復旧ではなく復興をというスローガンを掲げ、実行機関として帝都復興院を実現して自ら総裁に就任した(北岡伸一著『後藤新平』参照)。
後藤も井上と並んで、卓抜した独創力と実行力で腕を振るい、注目を集めた。山本内閣は虎ノ門事件(難波大助による摂政宮襲撃未遂事件)で23年暮れに総辞職となり、井上も後藤もわずか3カ月余で政権を去ったが、「危機のリーダー」として歴史に名前を残した。
「危機のリーダー」には井上や後藤の力量と手腕、それが望めないなら、2人を見込んで重用した山本首相の慧眼と度量といった資質が必要だ。菅をはじめ、現代の政治家にその持ち合わせがあるのだろうか。 (文中敬称略)